怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス

Daigoro vs. Goliath

1972年 東宝・円谷プロ提携作品  35ミリ カラー



製作       円谷一/満田かずほ
監督       飯島敏宏 
特技技術     大木 淳・中野稔
撮影       稲垣涌三
脚本       千束北男
音楽       冨田勲


「怪獣大奮戦 ダイゴロー対ゴリアス」は円谷プロ創立10周年をうたって劇場公開された作品である。公開当時東宝チャンピオン祭りで観ている。
この作品について賛否両論あることも知っている。
しかし私はかなりこの作品が気に入っている。それは何故なのか?
あまりにも純粋なのである。登場人物の誰も悪意というものを持たず生きているように見えるし、ダイゴローのみならず敵のゴリアスさえも最後ロケットに繋がれて宇宙へ帰される。
死が意識的に避けられているかのようだ。この作品を何度か観て気付いたことなのだが、登場人物(怪獣も含めて)全てが子供なのである。もちろん肉体的には大人なのだがその精神は子供なのである。 子供の心を持った人や怪獣だけの世界。この世界に似た映画を思い出した。「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」である。本多猪四郎がメガホンをとり、脚本まで書いたこの作品は子供の夢と現実が交錯していく構成になっているのだが、
それが最後融合してしまう。現実世界と夢の世界を自由に往還する少年。
まるで映画そのもののような世界。この子供を見つめる視線のやさしさが両作品には共通しているのだ。「ダイゴロー対ゴリアス」の主人公の一人、大工の熊さんは典型的な落語的世界のキャラクターなのだが、 その行動は直情的で浅はかな人間として描かれている。 こうした大人だからこそ子供達から見た時、友達というか同年代の人間として受け入れられるのではないだろうか。自分達と同じように怒り、笑い、泣く・・・そんな子供のような熊さんは子供達の代表のようにゴリアス退治に奔走する。
社会的にもこの映画の公開当時頃から子供達を取り巻く環境に変化が現れ始めている。家族環境が核家族化していくのだ。「かぎっ子」等の現在では当たり前で死語になってしまった言葉もこの頃からではなかったか。
大都市周辺へ人々が集まり、一から家族を形成していく時、そこには親子という最小単位の集落、つまり団地、そして田畑や山を造成して建てられた住宅地等ができていった。
それまで村や町という単位で結びついていた人々が各々個人を尊重しはじめたともいえる。
しかしここで私が言いたいのは失われた村社会へのオマージュでも回帰でもない。子供達は忙しい大人達を尻目に自分達の世界を貪欲に作り上げる。映画やテレビはそんな子供達の恰好の情報源である。
野山を駆け回る代わりに怪獣ごっこ、ヒーローごっこを作り上げる。
団地の階段、造成地、コンクリートの学校、どんな場所も遊びの空間へ変えてしまう。
そうった状況が「オール怪獣大進撃」でストレートに描かれている。
一方「ダイゴロー対ゴリアス」ではそこにあらたなコミューンを作り上げようとしているかのようだ。この映画に登場する人物団体全てが妙にいい奴ばかりなのも、それが作り手が意図的にそうしているからに他ならない。
この当時はまだ未来へ紡ぐ夢がまだあったのだ。今はどうであろう、私達はくり返される戦争や凶悪な事件の情報に囲まれ、無感動になりつつあるのではないだろうか?
いや、無感動にならなければ到底心穏やかになど暮らす事はかなわないであろう。
この円谷作品は今こそ見直されるべきなのかもしれない。このおとぎ話のような世界を素直に信じる事ができる事が本当の子供かどうかの試金石ともなるのだろう。
宮崎駿氏が会見で子供達の閉鎖性を反省と共に嘆いていたが、「ダイゴロー対ゴリアス」の併映が「パンダ・コパンダ」だった事は何か暗示めいたものを感じさせる。
子供の世界に目を向けた新たな作品の登場を期待したい。円谷プロが発信していたメッセージはいまだに生きている。