No.13 スタッフとしての録音・スタッフ論

 映画を志す人に聞いても録音をやりたいという声はほとんどない。監督や撮影希望 が多い。録音は縁の下の力でほとんど目立たないからだろう。
しかし、本当は存在がはっきり判り、その人の個性も見えてくるから気を許してはい けない。音そのものが極めて日常的だから目立たないような気がしているだけである 。映画の仕上げ・ダビングをしている録音技師は多くない。音の構成、音質、効果音 の使い方など人それぞれだから、映画を観ていると、これは誰の作品だろうと想像が つく。
 録音だからといって、技術的に音を採る事だけで十分と考えてはいけない。監督、 撮影などと同じように作品のテーマを把握しなければ音の付けようもない。作品全体 を理解し、自分の考えを盛り込んでいかなければ独自な音や構成は出来ない。

 人間として、尊敬し、憧れている監督に土本 典昭さんがいる。
「水俣 患者さんとその世界」オリジナル版は好きな作品である。一度でいいからスタッフ としてやりたいと思っていた。ある日、電話があり、即座に決めた。「よみがえれカ レーズ アフガニスタンの人々」である。沢山の資料をもらい、勉強会とスタッフ会 議が何度も開かれた。全員が内容を理解し、現場に臨むことが土本さんの基本だった 。監督だけが知っていればいいというやり方が多いなかでは責任の重い仕事である。  私の先輩達はロケから仕上げまでやっていた。分業ではなく一緒に作り上げていく というタイプだった。私も同じ道を選んだ。

 私の願望であるスタッフ論を土本さんはこう書いている。「映画はいきものの仕事 である」から引用する。私の精神的支えであり、理想である。

「記録映画が性に合うのは、決められたシナリオを批判的媒介として創造する劇映画 とは異なり、スタッフが同じ現実とむきあいつつ、共同して一つの表現をとり出し、 その時撮れたスタッフの真実を手がかりに次の表現に赴き、次の事実に立ちむかって いく、その共同性と異質性の葛藤・矛盾そのものにある。そして、他人は「私」ではな いというごく単純な認識を機軸に、製作、撮影、録音、演出が一つのコミューン的な 境地に、時に至るその一瞬がフィルムに定着されたとき作品がうまれるのである。相 識っているはずのカメラマンが、鋏をもって切りきざむことの不能なほど未知な質を もった茫然とさせられる映像を撮った時、録音が、潜在していた響きをまごうかたな い感性の音としてとり出した時、異質な核をもち合ったものの闘いが一つの映画とし てまきとられる。映画としての可視的な対象物となる。これは何者にも代えがたい快 楽であり、飢えるものの生き甲斐なのだ。・・そしてスタッフと根本的に語りあうの はつねにその人のもつ「モチーフ」についてであり「思想」であった。」

「スタッフは横ならびの構造で、どのひとりをとっても彼の映画、おのれの映画でな ければ成就しないものである。・・すばらしい映画の場合、その全過程にスタッフワ ークのピークがあった結果であり、いかに巨匠とはいえ、その凡作のプロセスには、 時にむごたらしいまでのスタッフの亀裂・崩壊が底流している筈だ。とくに記録映画 の場合、現実にひとしくむき合ったスタッフひとりひとりの感性と認識、その対象世 界のかかわりの違い方こそパン種であり、それをスタッフ全体でこねまわし、あたた めてパンにすることが出来る。「監督」とはそれが出来るように心をくばるものと思っ ている。「監督」に頭をあずけ、感性を供託して歯車のひとつと自らを規定する映画屋 はスタッフではない。」

「記録映画にとって、スタッフほど重大な要素はない。まず第一の人間関係は映画づ くりにかかわるスタッフとの共同性である。それはひとりひとり歴史と個性を異にす る点で、夫婦の共同性づくりと同じ困難がある。結局相互の異質の核をさぐりあてる までは、酒の力をかり、あるいはおびただしい討論をヘ、あるいは合宿しながら、最 後には異質への愛といたわりまでいかなければ、現場において「スタッフである」とは いえない。・・スタッフ形成がうまく成就したときにのみ映画は独自の輝きをもつ、 それが失敗したときには、たとえ演出者がいかにひとり卓抜していようと映画は統一 した光源をもち得ない。」

 映画が総合芸術といわれるのは、それぞれのプロが一つの作品を作り上げるために 、テーマを共有し、力を競い合うから生まれる。各パートは自分に最良の結果を求め ていく、そのぶつかり合いが大事なのにテレビやビデオでは討論さえなく、事が運ぶ 。

土本監督のスタッフ平等論は理想であり、それでもなお現実の行為でありたい。