No.18 ことばについて
 「教えられなかった戦争」の吹き替え
映画テレビ技術 92/9

ドキュメンタリー映画を観る機会は、普通の人でも、映画好きな人でも少ない。映画 関係者でもやはり少ない。ドラマならほとんど観ているという人でも、ドキュメンタ リー映画はほとんど観ていない。ドキュメンタリー映画は一般の映画館では上映され ていない、自主上映という形で文化ホールや公民館で人々の情熱に支えられて上映会 が持たれているのが現実で、そのことが観る機会を少なくしている。

 私はドキュメンタリーが好きだから、ドラマをやり、ドキュメンタリーをやる。ド キュメンタリー映画には強い主張・テーマがあるから、ドラマよりやりがいのある作 品が多い。
 ドキュメンタリーはひとりで録音する。ナグラをかつぎ、ガンマイクをブームにつ けて一日中動き回る。夏は肩が真っ赤になる。私の場合2時間ちかい長編作品が多い 。撮影期間もドラマより長くなる。例えば・・

「ゆきゆきて神軍」 2時間2分
    87年 原 一男監督
「よみがえれカレーズ」 1時間55分
    89年 土本典昭監督
「教えられなかった戦争」 1時間50分
    92年 高岩 仁監督

「教えられなかった戦争・マレー編」は、マレーシアを侵略した日本の第二次大戦か ら現在までのドキュメンタリーである。多民族国家であるマレーシアの言葉は、マレ ー語、中国語(地域によっては全く通じない方言・北京語、広東語、福建語、客家語 など)インドのタミール語、英語と多種多様、そして日本語も。
 インタビューがかなりある。これをどう処理するか・・スーパーを使うか、吹き替 えにするかである。カメラマンにとって、これは重大な問題だった。インタビューを 聞きながらズームアップしていく時、自分の気持ちとして思い切りアップにして表情 を捕らえたいが、スーパーの入る位置を考えると、思うような映像が撮れないと言う 。顔いっぱいのアップにすると、スーパーが口の位置にかかったり、顔の片側半分が スーパーでなくなったりして、アップにした意味が半減してしまうという。スーパー の入る位置を考えてアップにしていくと、アップに成りきれない中途半端な映像にな ってしまう。表情がすばらしい時、うれしい時、悲しい時、カメラマンはアップにして 見せたいと思う。
録音としての私も<生まの声>で、その気持ち、息使いを聞かせたい。
同時録音では言葉の一つひとつの感情が文字や論理以上に人々に感動を与え、言葉に ならない息使いや身振りが心をうつ。スーパーが入る事さえもどかしい時もある。ど うすればいいか。編集をしてから等といってはいられない。日々、インタビューがあ り、撮影していかなければならない。
 最初はスーパーと吹き替えの両方をシーンに応じて使い分けようと思った。しかし 、考えてみると、私に都合のいいスーパーにしたいシーンは<生まの声>を聞かせた いシーンでもある。カメラマンにとっても、アップで表情を見せたいシーンでもある 。
昨年、「あふれる熱い涙」(田代広孝監督)をやった。フィリピン花嫁の話で、タガ ログ語と日本語の吹き替えがダブルことがあった。そのとき感じたタガログ語の音楽 的響きが、二つの言葉に音としての差異を作り、同時進行であっても、二つの言葉の レベル、バランスを自由に作ることが出来ることを知った。「あふれる熱い涙」では 、タガログ語を<音楽のように>使い、母国語を聞くフィリピン人のなつかしさ、母 親への思いを表した。
「教えられなかった戦争」のインタビューは、ほとんどが日本軍に家族を虐殺された 人達の証言である。この映画は戦争を知らない若い人達に一人でも多く観てもらいた いと思った。高校生達はスーパーを読みづらいという。また、スーパーでは証言の一 部分しか文字に出来ない。私は証言を、そのまま丸ごと伝えたかった。吹き替えにす れば、ほぼ全体を伝える事が出来る。原語を生かし、日本語が聞こえるような、いわ ばバイリンガルにしたいと思った。普通、吹き替えにする時は、原語をほとんど聞こ えないようにするか、全く聞こえないないようにする方法がとられる。テレビなどの 吹き替えを見ているとあまり成功していない。ひどく当人をバカにしたしゃべり方を している事が多い。
ドキュメンタリーの場合、インタビューに応じてくれた人々に対する私たちの誠意は 、その人達を裏切らない事である。

 撮影が終わり、インタビューを翻訳する。翻訳した言葉を、話し言葉に手直しする 。アテレコにしない、ことばに感情を込めない、原語とのズレは一人ひとり考える、 などを基本に吹き替えを進めた。伊藤 惣一さんがナレーションと吹き替えをすべて やってくれた。
吹き替えにすると、話している人の表情、動作がよく見えてくる。これは以外だった 。こんなにも表情が豊かに見えてくるとは想像もしていなかった。目の動き、息づか い、そんな細かいところまでよく伝わってくる。これは無理なく言葉を理解出来たた めだと思う、また、気持ちの余裕が生まれてきて多少は知っている原語の単語がいく つか理解できた。ことば、それは国が違っても、やはり表現する手段なのだと思った 。異なる言葉を重ねても、日本人には日本語が、中国人には中国語が、聞こえてくる 。母国語が意味を伝え、他国語が感情を伝えてくる。
 レベル・バランスをとり、吹き替えの日本語を聞く、そして原語をどこまでレベル アップしていくか。耳で聞く、何度も耳で聞きながらバランスをとってみる。日本語 の吹き替えが理解できて、原語も聞こえてくる範囲でバランスをみる。機械的には両 方ともほぼ同じレベルだった。証言の内容も分かり、その人の感情も伝わってくる。 「言葉という音に対する認識」のすばらしさを改めて知らされた。つい少し前までの 人達は「お」と「を」、「じ」と「ぢ」、など細かい表現を識別できたと聞く。我々が忘れて しまった豊かな表現があったに違いない。

後日、八木 多木之助さんから手紙と「古代国語の音韻に就いて」橋本進吉 岩波文 庫をいただきました。