恩人・音人

女の子に生まれていたとしたら・・・。
ひょっとして今頃、何処かの舞台で華麗な踊りを舞っているか、将又、夏には各地の盆踊 り会場で踊り狂っていたかも知れない。  生まれてくる子供が女の子ならば、その子に日本舞踊を習わせたいと母は考えていたよ うだ。しかし幸か不幸か、私は男であった。 そこで母は日本舞踊を諦め、その替わりに私と2才年下の弟は木琴を習わせられる事とな 小学校3年生頃の事であった。
「何故、男の子だから音楽なのか?木琴なのか?」 これを機会に田舎の母にその訳を聞いてみた。 曰く、「偶々、知人の話から木琴を教えておられる先生の事を聞き、近所の子供たちを集 め木琴教室を始める事になったから・・・」  勿論、母も若い頃から音楽が好きで、その当時「音楽学校」は夢であったとか。 それを聞いて少しは納得する感もあった。

 いよいよレッスン開始。 母の監視の元、、毎日かなりの長時間練習をさせられた。(今考えると、大した時間では なくても子供には長く感じていたのかも知れないが・・・) しかし、練習していて、やっとトレモロ奏法が出来る様になった時の喜びは今でもはっき りと覚えている。
レッスンでは、私たちが弾く木琴に合わせて先生がハーモニカで伴奏して下さった。 だから木琴だけでなくハーモニカにも興味を持ち、ついでにハーモニカも教えて頂いたり した。 このハーモニカの伴奏は、教室にピアノが無かったから、苦肉の策であった為と思うが、 そのレッスンによって2つの楽器に興味が出て来た訳だから、私にとっての音楽の原点で あったように思う。 レッスンを受ける事で楽譜も早く読める様になり、学校で習う曲も友人より早く知る事が 出来、得意気になったものである。 又、ラジオの器楽コンクールや市民の為の音楽会など、小さい規模のものだが演奏活動も 行った。(その頃の母は、今でいう「ステージママ」だったのかも知れない)

 因に、その当時の得意曲は、私はショパンの「別れの曲」、弟は「ネコふんじゃった」 であった。しかし、その頃の私は音楽ばかりの色白の少年ではなく、外での遊びも忙しい 毎日を過ごしていたのである。
 中学校の頃、少人数のブラスバンド部。フルート、クラリネット等の楽器を適当にかじ り、最終的にトランペットを吹く事になった。 2年の頃には、音楽高校に進学しようと軽く考え、担任の先生に相談。 先生の「音楽は、厳しいいばらの道」との一言で断念。 音楽に対する情熱が未だいい加減で、加えて、他にも登山や他に興味の眼が行っていたか らそれほどの感傷は無かった。

   普通高校に進学。部活はブラスバンド部。トランペットやコルネットを吹いて「音楽は 趣味」の気楽さを楽しんでいた。
 ところが、1年生の3学期頃に事件が起る事になる。
その事件とは? 中学校の先輩のガールフレンドと教会の日曜学校の帰り道、ピアノを習 っていた彼女と音楽の話題で意見が別れ、とうとう言い争いになってしまった。「こうな ったら、オレも大和男子」男の意地に賭けても負ける訳にはいかない」とばかりに音楽家 への道を真剣に考える様になった訳だから、他愛も無い話しである。しかし、その先輩は 自分にとって恩人なのかもしれない。それ以降、将来の設計について悩み続けた。
「普通、音楽大学を受験する場合、小さい頃からピアノやヴァイオリン等を習っていて、 レベルも相当の技術をもった者が受験するわけだから、自分の様に木琴は習った事があっ てもさほど専門的ではないし、当然ピアノの実技の試験もあるから今からピアノを習って そのレベルに達する事が出来るであろうか?」非常にリスクの多いギャンブルの様である し、今考えると身の竦む思いである。結局「社会に出れば苦労は必ずある。どうせ苦労す るのなら、好きな音楽の世界なら自分で選んだ以上、耐えられるし、納得も出来る」この 様な覚悟を持って音楽の先生に相談し、両親に話をした。
 両親に話す際、一つの作戦を考えた。それは祖母を味方につけ強化な援護力とする事で あった。この祖母の援護が効を奏し、家族会議の結果は満場一致の大成功。翌日には学校 で音楽の先生に相談。先生はかなり驚かれたが、「それほどの覚悟なら・・・」と言う事 で受験に向け「和声学や対位法」など基礎的な勉強をみて下さる事になった。  一週間後、浜松の楽器会社からピアノが到着。中学校時代の音楽の先生にピアノのレッ スンをお願いする事になったが、この先生も半分あきれ顔。小さい時から木琴を習ってい た事を御存じだったので、打楽器科の受験を薦められたが、どうしても作曲科の受験を考 えている私の意を解って下さり、厳しいレッスンが始ったのである。
 1年6ヵ月程の超短期間の受験準備生活の後、幸運にも念願であった武蔵野音楽大学音 楽学部作曲学科に無事入学する事が出来た。楽しい4年間の学生生活後、専攻科の作曲学 科への入学、卒業後を「どうしようかな?」と考えていた頃、テレビの世界で制作の仕事 をしていた、南條 記良氏(私の高校時代にテレビドラマのロケで三重県亀山市に来られた 時に知り合った)からの紹介で、映画、テレビ等の音楽の仕事をしている会社を紹介され 、商業音楽の世界を初めて知る事になった。そして連れて行ってもらったスタジオで音楽 録音や、映画のダビング(映像にセリフや効果音、音楽を合わせて録音する作業)に接し 大変興味を持った。またまた恩人の出現である。
 それまで何気なく観ていた映画やテレビの世界。これ程多くののスタッフの手で作られ ている事等、思ってもいなかった世界。カルチャーショックである。  アルバイトとしてこの世界に飛び込んだのだが、音楽録音の時は楽しかった。 仕事で有名な作曲家の先生方の生の姿に会えるのだ。しかも仕事だから作曲された楽譜を 見る事も出来る。しかし仕事が終わってもその楽譜は頂く事が出来ない。だから、一計を 案じた。それは各演奏家用のパート譜は録音が終了すれば不用になるから、それを先生に 断って頂いて帰り、そのパート譜から映画の作曲法を勉強する、まさに技を盗むのである 。

  「M-1、本番!」トークバックの声でスタジオ中が緊張感に包まれる。 指揮棒を振り下ろすと、先程まで頭の中にあった音がオーケストラから実際の響となって 奏でられる。徹夜で作曲していて「どうして作曲家になったのだろう?」と苦しんだ事が 最初の1音の響で「どうして?」から「やっぱり作曲家で良かった」に変わる瞬間。 指定された音楽の全てを録音、mixdown,そして完成。全てが緊張の連続。
 しかし、この緊張感を結構楽しんでいる。自分の頭の中でイメージが膨らみ、スコアー に表現した音が実際に音の形となって響き渡る。このような快感が他にあるだろうか?  スタジオに入り演奏者に出来たての楽譜を配る。1、2時間前に作曲が完成する場合も あるから、当然、出来たてホヤホヤの初見演奏ということになる。しかしそこはプロの集 団。「おはようございます、よろしく」と挨拶を交わし指揮棒を振り下ろすと、楽譜通り の音が奏でられる。写譜ミスがあれば、ミス通りの音までもが忠実に再現される訳である 。もちろん写譜ミスはその場で訂正して本番の録音に備える。
 演奏者の演奏料は、その当日支払われる事が多く、時間で依頼している為、約束の時間 を超過するような事があってはならない。楽譜にミスがあるとその訂正や修正の為に無駄 な時間をとられてしまう。その為にスコアーを書く時には、誰が見ても解るようにきれい な譜面を書くよう心掛けている。
 作曲した曲のタイムが映像に合っているか、曲の雰囲気がマッチしているか、そして、 なんとか時間内に収めようと、必死。それは、まるでタクシーに乗ってどんどん上がる料 金メーターを見ているようである。
 スタジオの機材は最近の技術の発達と共にデジタル化され、2〜30年前から比べると 可成り変化した。演奏者のブースも以前は全員が揃って演奏出来るように相当広いブース のスタジオが多かったが最近ではピアノ、ドラムなど音が混じり合わないように各々小さ いブースに仕切られていたり、別の階に弦楽器がいてTVモニターで指揮を観て演奏する というスタジオまである。
 さて、映画のBGMの場合、撮影後編集され録音やいろいろの最終調整の為に使用される 作業用の「ラッシュフィルム」と呼ばれるフィルムを観て、その編集されたカットの順に 書かれたカット表や台本を基に音楽を附けるシーンやニュアンス等を監督と打ち合わせる 。もう一度さっきのシーンが観たいといっても映写機でのフィルムの巻き戻しは大変で時 間もかかるので1回目の映写でしっかりとカットを覚えていなければならないし、その限 られた時間の中ではっきりとしたイメージを自分の中で感じていなけば充分な打ち合わせ が出来なくなってしまう。
 最近、劇場用映画以外のドキュメンタリー映画、教育用映画、企業のPR用のものや殆 どがビデオになったので、何度でも観たいシーンを繰り返すことが容易に出来るので便利 になった。しかし映像からイメージを感じ取る事は同じである。  しかしながら近頃の不況下にあって、TV等の映像のBGMを作曲し生のオーケストラ で録音する様な事は、殆ど稀になってしまった。
 コンピュータやシンセサイザーの発達に伴って自宅での録音も出来るようになり又、  音も非常に良くなり表現力も豊かになり確かに便利になった。しかし機械には限界もあり 、それを使う人の感性次第で良くも悪くもなってしまうし、仮に演奏を失敗しても簡単に やり直しが出来る為、スタジオでの録音の様な緊張感を感じる事が少なくなった。  又この様に作曲をしなくても、日本製や外国製の音源(著作権フリーや有料のものもあ る)があって、その中から場面に合った音楽を選ぶ「選曲」という職業の人がいてその仕 事をするのである。以前は効果音を専門にしてしていた人が選曲までやる様になり「音響 効果」の肩書きから「音効さん」と呼ばれる人が増えて来た。
しかし、一枚の音源CDに収録されている音楽の全てが使用に耐えられるものかというと そうでも無く、精々一、二曲がいいところで、あらゆるニーズに備えるには相当数の音源 が必要になるわけである。

 しかし、私自身は作曲家である以上、スタジオや聴衆を前にしたコンサートで味わう様 な醍醐味と、あの緊張感を忘れたくないし、又、大いに楽しみたいと思っている。  この世の中、一人の力では何も出来ない事を思う。私が作曲家として今あるのは、その きっかけを作って下さった方々、又、御指導頂いた多くの先生方や諸先輩方、また或いは 、いろいろな種類の音楽の挑戦をさせて頂いた映画監督の皆様、そして大きな理解と協力 で私を支えてくれた家族のお陰である事を忘れてはならないと肝に命じている。