ЗЕРКАЛО

The Mirror

1975年    ソビエト映画



監督       アンドレイ・タルコフスキー
脚本       アンドレイ・タルコフスキー
         アレクサンドル・ミシャーリン
撮影監督     ゲオルギー・レルベルグ
音楽       エドゥアルド・アルテミエフ
挿入詩      アルセニー・タルコフスキー

母マリア/妻ナタリア(二役)     マルガリータ・テレホア
父                  オレーグ・ヤンコフスキー
私(少年時代)/息子イグナート(二役)イグナート・ダニルツェフ
詩朗読                アンドレイ・タルコフスキー


この鏡がタルコフスキーの作品で一番最初に観たものである。
その後、『僕の村は戦場だった』『アンドレイ・ルブリョフ』『惑星ソラリス』『ストーカー』『ノスタジア』『サクリファイス』と追い掛けた。
タルコフスキーの作品には非常に分かりやすい部分があると思う。
例えば鏡は自分の母親の記憶を辿る映画。
ストーカーは人間の記憶を辿る映画。
私がタルコフスキーの映画に魅せられたのは、この分かりやすさ=共通の体験、記憶とい部分に対してだとおもう。
彼の作品から哲学的な命題を引き出す事は簡単であろう。しかし私がタルコフスキー映画に強く惹かれたのはその時間と空間の感覚にである。
タルコフスキーの映画には映画でしかなし得ない時空間のトリックが必ずあるのだ。
『ストーカー』でテーブルの上のコップが少しずつ動き出す時・・・
『サクリファイス』でカメラが人物をフォローしている後ろで燃えはじめ燃え尽きる家・
『ノスタルジア』で降り出す雪・・・
『鏡』で空中に浮く母・・・
そして光りと影と水・・・
人は誰でも頭の中で映像を造り出し、みる事ができる。その空想や妄想を人に伝える手段としては映画が一番敵していると思うが、ただ単に何かにレンズを向けて露光を始めても意図はほとんど伝わらない。
そこで作り手はトリックをしかけるのだ。
『鏡』の冒頭、柵の上に腰掛けた母親が丘の向こうを見つめている長いカットがあるのだが、その空間とカメラが回りはじめてカットされるまでの時間には、それ以上のものがつまっているのだ。
映画はカメラがフィルム送り、露光させはじめてからその動きをやめるかフィルムがなくなるまでの時間をその上に定着させる。しかしそこには枠(フレーム)というものが存在しており、決して現実そのものを写し撮れるものではない。
この枠の中に写す人間の思いや感情を封じ込め、観る人に伝える為に映画の作り手達は様々な手法を考え出してきたのである。
私はタルコフスキーという人がまるで始めて映画にふれた子供のような感性で映画を撮っているようにしか思えない。そして子供はトリックが大好きなのだ。彼の頭の中で見えた空想や妄想をこのトリックを使いフィルムに焼きつけたのがこの『鏡』という作品ではないかと思っている。