実践的製作日記「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」タイトル


「菅江真澄の旅」(紀伊国屋ビデオにて発売)の製作レポートを通じて、 実践的に製作の流れや、技術、問題の克服等を学んでいきたいと思います。 下にあるのが、ロケハンから1年に及ぶ撮影のレポートです。



「菅江真澄の旅」



菅江真澄
(すがえ・ますみ)


正確な出生はあきらかではないが、宝暦4年(1754年)、三河国(愛知県)に生まれ たとされる、大紀行家にして偉大な記録者。
30才の時に東北へ向け旅立ち、松前(北海道)まで踏破している。
真澄の残した各地の習俗の記録は文字と絵で残されており、その内容は民俗学等の概念の ない江戸時代としても貴重なものである。
明治時代、柳田邦男によって再評価され『民俗学の祖』とも言われる。
文政12年(1829年)76?才で没するまでの46年間、ひたすらに東北を記録し続 けた。
真澄はこの間一度も故郷へ戻っていない。


本作は、真澄の足跡をたどりながら現代まで続く文化や習俗を記録している。 紀伊国屋書店より VHS仕様にて2002年発売され、

菅江真澄の旅 〈1〉 真澄の生涯
菅江真澄の旅 〈2〉 青森・津軽編
菅江真澄の旅 〈3〉 岩手編
菅江真澄の旅 〈4〉 北海道編
菅江真澄の旅 〈5〉 青森・下北編
菅江真澄の旅 〈6〉 秋田編

の全6巻構成となっています。
※ 著作権付き価格で高額なため図書館などで探すかリクエストする方法があります。



リスト
ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

準備・ロケハン 編


2001年

4月10日
アムールにて打合せ。内容に関しての話し合いを監督・演出助手とする。参考にと持参した「木喰」のビデオをみんなで観る。菅江真澄自身を再現する時の参考にと思っての事だが、試写後の話しあいで、ドラマの様な再現ではない事を確認。あくまでイメージとして菅江真澄の姿を表現する事になる。まだ、具体的な表現方法を思いつかないが、16日からのロケハンで、菅江の歩いた土地を体で感じれば何か思いつくのではと思っている。

4月13日
神田へ『菅江真澄遊覧記』ー平凡社ライブラリー(全5巻)を買いに。ついでと言っては何だが、岩波ホールで『山の郵便配達』を観る。渋谷昶子監督から菅江真澄製作の上で参考になるとの推薦があった為である。中国の山村を舞台に、父とその仕事である郵便配達を引き継ぐ事になった息子との交流の物語である。平板な物語だが静かな味わいのある作品だった。特に山村や山道の持つ雰囲気は参考になった。「道」をどう描くのか?帰りの電車の中それをずっと考えていた。帰宅後、資料を元に『真澄ちゃんのーと』作り。
夕方、昔お世話になっていたキャメラマンからTELがあり、近所で飲む。

4月15日
十条にある‘しらくら‘というカメラ屋さんでIkegamiのHLーDV7W(DVCAM一体型デジタルカメラ)をチェック。

「菅江真澄の旅」

16:9撮影がテーマなのでこのカメラの選択になったのだが、アムールとしても大きな買い物なので、慎重にチェック。肩に担いだ時のバランスが非常にいいので気にいっている。16:9ワイドスクリーンも4:3の上下を切るのではなく、ムービーのアナモフィックのように左右をレンズで圧縮し撮影、モニター上で再び左右に伸長する方式。これだとCCDの全領域を使用しているので、画質的に有利なのだ。キャメラマンとしてはDVとしてこれ以上望むものはない。ワイドの画作りは始めてだが、今から楽しみである。カメラの詳細に付いてもこれからレポートしようと思うので御期待下さい。

「菅江真澄の旅」

これから、ほぼ1年間このカメラと付き合うことになる。いい機会なので、しゃぶりつくしてやろう!A社に戻って、ケーブルを自作。みんなと食事をして、帰宅したのがほぼ11時。さぁこれからカメラのマニュアルを読んでお勉強。明日からロケハンが始りますが、16/17と個人のお宅に泊まる予定なので、次の日記は18日以降になると思います。御期待下さい。それでは、いざ東北へ! 


「菅江真澄の旅」

国土地理院発行数値地図250mメッシュ(標高)を使用

4月16日
朝8:00に集合し、車で出発。途中休憩、食事を挟みながら午後2時に平泉・毛越寺へ到着。寺の担当者の方に1月20日に行われる『延年の舞』のお話をうかがう。『延年の舞』とは毎年行われる田楽で、毛越寺の中「常行堂」という場所で舞われる。舞い自体は能以前の形を色濃く残した優雅なもので、菅江真澄も2回観ている。

「菅江真澄の旅」

寺の方の御好意でビデオを拝見したのだが、撮影するという視点からは少々しんどい。まず、舞い自体が御本尊への奉納の形をとっており、舞いは全て御本尊へ向かって舞われる事。つまり、キャメラを舞いの正面へは配置することが出来ない。それから、舞いの当日はキャメラ席が設けられるのだが、通常は一ケ所からとなること。正式な許可を必要とするので、今後更に撮影方法の検討が必要であろう。

「菅江真澄の旅」

余談だが、おみくじをひいたら見事に『大吉』でした!毛越寺を後にして、すぐ側にある中尊寺へ。毛越寺と同様に藤原4代の栄華を偲ぶ事の出来る名刹である。金色堂はあまりにも有名。やはり寺の方にお話をうかがう。中尊寺内の白山神社には能舞台がありこれを撮影することになる。真澄もこれを記述している。

4月17日
朝から快晴。地元の方達への取材、調査。「ダ・ダ・スコ」(地元の民俗関係の雑誌。「ダ・ダ・スコ」とは、太鼓の音からの引用)の編集長や教育委員会の人々に菅江真澄についての情報を提供していただく。私自身、少しずつだが真澄の事が解りはじめてくる。やはり実際の場所だからなのだろうか?昼頃、北上市近くの北上川河川敷に広がる桜並木を撮影。クランク・インとなる。次に、衣川というところにある「北館(きただて)桜」を撮影。花も見事に満開で絶妙のタイミング。樹齢700年と言われる幹は太く逞しい。畏怖の念すら感じる程の立派な桜だった。菅江が観た時には「検断(けんだん)桜」と呼ばれていたようだ。菅江はこの桜を前にして何を思ったのだろうか。

「菅江真澄の旅」

夕方、夕日がいいので車を止めて急遽撮影。本当に天気には恵まれている。

「菅江真澄の旅」

4月18日
朝から快晴。異常な程の好天気。2日間お世話になった八重樫さんのお宅を後にする。八重樫さんは監督の旧友で、大規模な稲作農家を経営している方。おいしい奥さんのお料理と美酒に舌鼓をうった2日間だった。東北自動車道で盛岡へ移動。阿部さんという女性の方の案内でかつて真澄が画を描いた『船橋』へ。

「菅江真澄の旅」

船橋とは北上川に船を並べて繋げ、板を載せて簡易の橋としたもので、江戸時代当時でも2番目に大きな規模だったようである。ただし当然ながら現存するわけもなく、船橋があった位置から少し上流に今では立派な橋がかかっている。

「菅江真澄の旅」

真澄が描いた画と現在をダブらせようという趣向である。阿部さんのお友達佐々木さんの家で食事を御馳走に。ワインを飲みつつしばし談笑。本当においしかった。ほろ酔い気味でロケハン続行(いいのか!?)。ただ今、美酒と美食で急激に体重増加中!

阿部さんと別れ、再び高速で二戸(にのへ)へ。

雑穀栽培をしている高村さんのお宅へ。真澄がここで一夜の宿をお願いした時に、そこで粟飯を振舞われた事を書いている。飢饉で食料の乏しかったにも拘わらず真澄には粟飯、自分達は稗飯を食べていたと記述している。

高村さんは非常に情熱的な人で雑穀の過去、現在、未来を語って下さった。

「菅江真澄の旅」

一連の雑穀畑を見せていただいた後、高村さんのお宅で草餅と粟入りのパンを御馳走に。

「菅江真澄の旅」

何だかホントに食べてばっかりだ。

「菅江真澄の旅」

4月19日
朝市の行なわれている街を出発。天明の飢饉でなくなった人たちの慰霊碑があるという事で、それを探しに。最初聞いていた場所にそれはなく、地元の人たちに尋ねながら暫くうろうろする。車を走らせているうちに自分達で発見!ほんの数百メートル手前で聞いているのに、今の住民は誰も知らなかった。たかが数百年前、自分達の祖先が受けた苦渋を誰も知らない事に驚かされた。

「菅江真澄の旅」

車を走らせ、一路青森へ。まず、六ヶ所村へ。真澄が訪れた時になかった原発が集中している所である。尾駮(おぶち)沼を真澄は描いている。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

漁師の使う小屋と尾駮沼がそこには描かれている。真澄が今のこの風景を見たらどう思うのだろうか?

4月20日
朝からあいにくの雨。
今日は夏泊半島にある椿を撮影する予定だったので、雰囲気が悪くなる。しかし、そこは発想の転換。幸いに雨のいきおいは弱く、低くたれ込めた黒雲を撮影しながら天気の回復を待つ事に。おかげでねらったって撮れないような雰囲気を撮影出来た。半分駄目元だと撮影場所へ向かう。するとみるみるうちにお天気は回復へ。なんてついているのだろうか。現場にやってくれば晴天に。初めのうちこそ安定しなかったが、晴れ間をねらって撮影する事が出来た。

「菅江真澄の旅」

写真では防寒着を着ているが、今日の青森は例年になく寒く、気温が昼間でも3度。寒さ対策の用意をしてきて良かった。更に風が猛烈で、体感温度は0度近かったのではないだろうか?

「菅江真澄の旅」

天気が安定しなかったせいもあり今日は1日中撮影となった。

「菅江真澄の旅」

今日が本格的に一日中撮影した初日となった訳だが、キャメラで気になった事が一つ。それはバッテリーについてなのだが、現在我々の使用しているキャメラバッテリーは「endura50」というものなのだが(バッテリーはオプションで各社のものが選択できるようになっている)。このバッテリーが持ちが悪い。寒さの影響かもしれないのだが、それにして悪すぎる。普通に撮影していて小1時間でなくなってしまうのだ。これでは撮影に支障をきたすのは必至なのでさっそく追加を検討中である。それともう一点、キャメラ本体前面にあるフィルター選択ダイアルとレンズ。これとすぐ上にあるビューファインダーとの間が狭い。手袋をした手では非常に操作がしにくかった。普段気にならない事も、今日のような条件の元では気になってくる。

現在青森に宿泊しているのだが、泊まっているホテルの部屋に電話回線がないので、更新も滞りがちになるかもしれません。特にメールはお返事まで時間がかかることが予想されますので、ご了承下さい。

「菅江真澄の旅」

4月21日
快晴、一路岩木山へ。途中、岩木山を撮影しながら移動。今回はロケハンなのだが、天気はこちらの思いどうりにはいかないので、いいと思ったら撮影しようと思ったからである。本当にこんなに岩木山がハッキリ見える日は、そうはないのではなかろうか。

「菅江真澄の旅」

気分もよく岩木山神社へ。次に巌鬼山(がんきさん)神社へ。

「菅江真澄の旅」

人の訪れる事もほとんどなさそうな山の奥にそれはあり、巨大な杉が2本祀られている。誰もいない境内は燐として静まり返り、不思議な雰囲気醸し出している。本殿の戸が閉まっていたのを引いてみると、一瞬閉まっているのかと思わせたが、直ぐに重苦しい音と共に開いた。中には奉納されたものなのだろう、鬼の顔が壁に飾られていた。帰り際、一人のおばあさんが誰だろうかと、外に出てきて我々の様子を窺っていたいたが、特に害はないと思ったのだろう、直ぐに帰って行っったのが印象に残った。それほどに、誰も訪れる者のない神社なのだ。我々も次の目的地十三湖へ向けて車を走せる。

十三湖に到着してまず訪れたのは『市浦村歴史民俗資料館』。中世、ここは一大交易港だったのだ。安藤(安東)氏の支配の元、栄えていたのは江戸以前の時代までで、真澄が訪れた頃にはすでにさびれてしまっていた

「菅江真澄の旅」

真澄もその栄華をしのんで感慨に耽った事だろう。

次の目的地宇鉄の浜へ向けて出発。何度か道を間違え、とにもかくにも北へ。ところが1時間も走った所で道は閉鎖されていた。25日に開通するらしい。

「菅江真澄の旅」

苦労してここまで来たので、がっかり。しかし、おかげできれいな夕日を見る事が出来た。。

「菅江真澄の旅」

夕日の感動を胸に、2時間かけて青森まで戻る。風景、自然というのは何でこんなにも人の心を癒してくれるのだろうか。青森での食事の時も、何か気持ちが弾んでいて、ついつい盃が進んでしまう。

4月22日
下北半島へ向け青森を出発。今日も快晴。
むつ市で昼食にオムライス(大好物!)を食べる。昔ながらの味で大満足!
正津川村で優婆(うば)像を住職に頼んでみせていただく。残念ながら写真は御遠慮願いたいとの事。

「菅江真澄の旅」

本州最北端の地、大間崎へ。

「菅江真澄の旅」

北へ来た事をいやがうえにも実感させられる。真澄は、この海のむこう松前(北海道)まで行っている。何が一体真澄をそこまでかりたてるのだろうか?真澄の行動力には本当に感心させられる。ここで天気が急に変わり奥戸(おこっぺ)ではヒョウが降る。

「菅江真澄の旅」

佐井村まで移動。『海峡ミュージアム』で北海道との貿易の資料を見学。

「菅江真澄の旅」

佐井村の「かわばた旅館」へ投宿。ひと風呂あびて、各々くつろぐ。

「菅江真澄の旅」

いつも、こんな感じでこのホームページを更新しています。今日の旅館にも部屋に電話回線がないのでデータの送信は明日青森に戻ってからにすることにする。

「菅江真澄の旅」

食事中の話題も菅江真澄についてで、話がはずむ。
夜、この佐井村の選挙投票日だったらしく、投票の状況を知らせる村内放送が遅くまで聞こえていた。

4月23日
快晴のなか出発。真澄が泊まったであろう家を見る。

「菅江真澄の旅」

ところが、昼前から体に悪寒がする。今朝旅館の部屋の窓が少し開いていたのだが、風邪?悪寒はひどくなる一方。薬屋で風邪薬を買って飲む。青森に向かう間にかなりの汗をかいた。午後3時にホテルに入り、私は念の為休む事に。監督と助監督は資料を探しに街へ。明日からもまだまだロケハンは続く。大事をとる事に越した事はないだろう。

4月24日
まだ、少しだるさが残っているが大分体調は回復した。青森は曇り。まず、床舞(とこまい)へ。

「菅江真澄の旅」

ここで、真澄は天明の大飢饉の惨状のなごりを目撃している。真澄の記録を引用すると『卯の木、床前(舞)という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨などのころがっている穴ごとに、薄や女郎花のおいでているさまは、見る心地がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人が聞いて、・・・』。真澄にとって始めて目にする飢饉の現実だったのではないだろうか。
日本海側へ抜け、秋田県との境へ向かう。
荒波にもまれた海岸線が続く。この海岸線を行く真澄は寡黙で、ほとんどその印象を記録していない。私の勝手な想像だが、この間の道は現在からは想像できないほど過酷な道だったのではないだろうか。真澄は景色に心をくだくどころではなかったような気がする。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

秋田県に入り、湯の沢温泉『藤駒荘』へ宿泊。温泉が疲れを溶かしてくれる。

4月25日
鼾と歯ぎしりの応酬に耐えながら朝を向かえる(そう言う私も応戦したが)。藤駒荘の方に見送られ、出発。
この藤駒荘、みなさんも機会があれば是非一度訪ねてみてはいかがかと思う。お肌がつるつるになります!(何だか秘湯の旅っぽい)

「菅江真澄の旅」

森田村へ移動。ここにも確実に春はやってきている。

「菅江真澄の旅」

真澄の足跡を追って更に移動。阿仁村のマタギ集落では、廃校になってしまった小学校を見た。比較的新しい校舎が余計に寂しく見える。校門の桜はまだつぼみだったが、何人もの人たちがきっとこの下で入学式の記念写真を撮ったことだろう。

「菅江真澄の旅」

旧道を行ってみようという事で、舗装されていない道を走って行く。

「菅江真澄の旅」

所々、小さな崖崩れがある。ほとんど今では使われる事のない道のようだ。
すると、突然ガスがもれるような音がして、一瞬何事かと緊張する。
パンクである。

「菅江真澄の旅」

見事なパンクである。すぐ後ろの方に、まるで包丁の刃のような石が転がっている。これにタイヤが乗ってしまったようだ。直ぐにスペアと交換して、無事に走行できるようになったが、みるとその先にも同じような石がごろごろしている。 今度パンクしたらスペアもないのでアウトである。結局、引き返す事に。しかし、Uターンして直ぐにカタクリの群落を発見。来る時は気が付かなかったのだが、素敵な光景。さっそく、撮影する。パンクがなければ出会わなかった事を考えると、本当にラッキーな事だ。 秋田市へ向けて移動。アキタシティホテルへ泊まる。秋田は菅江真澄が晩年長く住んだ場所で、真澄の研究も盛んである。真澄の墓もここにある。

4月26日
秋田・菅江真澄研究会の田口さんの案内で「秋田県立博物館」へ。
秋田は菅江真澄が晩年まで過ごし、一番長く滞在していた場所である。菅江真澄についての研究が一番されている県でもある。「秋田県立博物館」内には立派な「菅江真澄資料センター」がある。資料センターを見学したあと真澄の足跡をたどって市内へ。
真澄のお墓では手近の花を手向ける。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

男鹿半島へ向かう。なまはげの風習で知られるこの半島を真澄は丹念に記録している。椿山で椿を撮影。近くのおばさんが自分の裏山によく見える所があると、険しい山の斜面を案内してくれる。男鹿半島の荒々しい自然と土地の人の優しい人情に触れ真澄も旅をしていたのだろうか。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

男鹿の「雄山閣」旅館に泊まる。通称「なまはげの湯」が疲れを癒してくれる。

4月27日
ロケハン最終日。寒風山へ。男鹿を象徴する山。

「菅江真澄の旅」

男鹿半島を後にして、八郎潟へ。日本で琵琶湖に次いで大きな湖を干拓し、農地にしてしまった所である。真澄の頃はもちろん満々と水をたたえていた。ここでも真澄は漁を丹念に記録している。地元の資料館で確認したところ、明治の最初の頃までは、真澄が見た風景と変わらなかったようである。

「菅江真澄の旅」

しかし、今はその面影すらない。湖だった所には高級住宅が建ち並んでいる。

「菅江真澄の旅」

秋田県立博物館へ戻り、菅江真澄資料センターをもう一度見学。
長かったロケハンを終え、東京への帰路につく。

4月28日
今回のロケハンでは真澄の道程には遠くおよばないものの、真澄が歩いたコースを真澄の文章と照らし合わせるうちに、何か真澄の気持ちの一端を覗けたような気がした。夕暮れの山道や海岸で、実際の風景の中で感じたことである。
大紀行家であり偉大な記録者でもあった『菅江真澄』をどこまで描く事ができるのか、ゆっくりと考えようと思う。
一つだけ言える事は、我々も映像という道具を使って現在の東北を記録することになるということである。

「菅江真澄の旅」


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 1



「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

5月16日
いよいよ本格的な撮影が始まった。まずは岩手県へ。
前沢町の教育委員長・佐藤英男さんの案内で真澄が当時世話になったという鈴木家へ。北上川の側で32代続く旧家である。当時真澄を世話した24代鈴木常雄が残した『楽山亭日記』が残っている。鈴木常雄は武士の身分ではなかったにもかかわらず、帯刀をゆるされているほどの人物で、その姿を肖像に見る事ができる。
今日は資料撮影が主であるが、実は前回のロケハン中に分かった事に、三脚ヘッドの問題があった。詳しく説明すると、A社の所有しているヘッドは1年近く使用されておらず、オイルの効き具合がおかしくなっていたのだ。ティルトをして止めた時に不意にオイルの粘りが変わり、画面を動揺させてしまう。ロケハンから帰りさっそく修理を依頼したのだが、結果はオイル自体の経年変化らしく、本格的な修理はメーカーへ送らないと出来ないとの事。キャメラの微妙なコントロールを要求される資料撮影では僅かな動揺も画面では致命的となる。新たな三脚の調達も含めて検討が必要だろう。

5月17日
前沢町の霊桃寺へ。真澄が宿泊した寺である。

「菅江真澄の旅」

美しい花の咲いた清楚な寺。何かすがすがしい気持ちにさせられる。
田植えの風景を求めて、北上川周辺を捜しまわる。
しかし、ほとんどの田は田植えを終わっていて、なかなか見つからない。かろうじて数人の人が機械植えで出来た隙間に苗を手作業で植えているのを発見、さっそく撮影させていただく。
夕方、天気がよかったので夕景をねらう。

「菅江真澄の旅」

5月18日
朝、次の目的地、秋田県五城目町へ向かう。
真澄がここで山内番楽という神楽をみている。そしてここには真澄も見た、踊りに使われる面が残っている。真澄はその面の詳細な図絵も残しているのだ。その面を保存している小林さん宅へ。

「菅江真澄の旅」

色々お話をうかがいながら、番楽に関するお話を撮影する。
私なりのこだわりなのだが、一般の方を撮影するときは極力ライトは使わない様にしている。もちろんビデオキャメラだから出来る事なのだが、キャメラを向けられ、それでなくても緊張している人にライトは増々緊張を強いてしまう。それでは聞ける話も聞けなくなってしまう。暗くてどうしようもない時以外はその場(蛍光灯や自然光)の光で撮影している。なるべく日常の状態を乱さない様に心掛けている。そして笑顔。キャメラの向こうでキャメラマンが無表情だと、やはり相手を緊張させてしまう。必要とあらば私は自ら語りかけながら撮影することもある。普段の会話の雰囲気を持続させるためである。キャメラを意識するなというのは不可能です。ならばそのキャメラに対する意識をなるべくフレンドリーなものにし、緊張を和らげていくしかありません。
この事を実践し始めてから被写体になる人達の表情が随分自然になった事を実感しています。

5月19日
今日は神明社という神社のお祭りの日。この神社の神楽殿で山内番楽が披露される。
朝から天気が悪く心配だったのだが、お昼前から雨が降り始めてしまった。しかし、実は雨の田んぼを撮影したかったのでこれも恵みの雨となる。真澄の日記には雨の日に田植えをする農民の姿の描写があるのだ。神に感謝!そして番楽の始る夜には雨は上がってしまった。
真澄も見たものを今現在見ている自分に不思議なものを感じた。

5月20日
五城目町の朝市を撮影。この朝市も真澄の記述の中にあるのだ。おばちゃん達の表情が実にいい。
季節がら山菜や花、八郎潟のナマズや鯉等も店頭に並んでいる。
近くの山に登り、町を俯瞰することに。思いがけず男鹿半島や八郎潟までが一望できる。少々靄(もや)っているが、撮影する。まだ、この作品に対する撮影方法を攫みきれてはいないが、少し真澄を感じる事ができたロケだった。
昼前に五城目町を出、東京への帰路に就く。



(以下 2001/5/25 加筆)

5月23日
アムールに16:9対応のモニターが入荷。今まで液晶の小さな画面でしか確認できなかったのだが、これで基準とする環境が出来た。さっそく今まで撮影したものをプレビューしてみる。やはり思ったより色が浅いところや、露出に若干の違いがある。
特にこれは撮影時には気がつかなかったのだが、ワイド画面の左右のフォーカスがほんの少し違う。簡単に説明すると、最望遠時にだけ起るようだが、例えば同じ距離にある被写体でも右にフォーカスを合わせると左があまくなり、左にフォーカスを合わせると今度は右があまいというような具合である。今回特に意識して深度を浅くするために屋外でも絞りをF4以上は絞っていない。それが災いしたようだ。試しに、F5.6まで絞るとその現象はなくなる。微妙だが、これで納得はできない。後日ちゃんと調べる事に。
それから三脚の件、アムールも立て続けに大きな買い物をした後なのでなかなか新しい三脚を購入するのは難しそうだ。このまま今の三脚をだましだまし使う事になるかもしれない。

5月25日
解像力チャートを持ち込みアムールにて検証を開始する

「菅江真澄の旅」

やはり最望遠時、絞りがF4.2以下になると左右のフォーカス位置のズレが目立ち始める。池上通信へ電話して後日持ち込む事に。この状態では、例えば暗い室内等で絞りが開いてしまう時に最望遠側を使う事が出来ないという事になってしまう。確かに条件はレンズやボディにとって厳しいものだが、それが出来なければ先の様な条件での撮影を避けなければならなくなる。来週、池上に持ち込む事になったので、更に詳しい事が御報告出来ると思う。



(以下、2001/5/31 加筆)

5月31日
池上通信機へキャメラを持ち込み、お話を伺う。現在使用しているレンズは業務用で、放送用のレンズよりも多少劣るとの事。実際、放送用のレンズを装着してもらったところ確かに片ボケはしていない。とにかく工場へ送って調整してみる事になった。池上通信機の中川さんのお話では、元々レンズのイメージサークルを16:9撮影では目一杯使っているのでどうしても画面周辺になると解像力がおちるのに加え、絞りを開放近くで使用している為に起きたのではないかという事。中川さんは営業の方だが元々技術を担当なさっていたらしく、こちらの話しは直ぐに分かっていただけた。ここで敢て説明しておきたいのだが、今回私が問題にしている事は一般の方よりも相当厳しい見方をしている結果であり、池上通信機のキャメラに問題がある訳ではない事をおことわりしておく。実際、池上側の対応は私の感覚からしても真摯であり、技術者として信頼出来るものであった。調整の結果は来週には出る。

イメージサークル : 
焦点面に対し、レンズが焦点を結ぶ事の出来る範囲。
全てのレンズにはこのイメージサークルがあり、この範囲の中に焦点面が入っていないと画面周辺に向かって解像力がおちていく。例えば16mm用のイメージサークルを持ったレンズをそのまま35mmに使用した場合、画面周辺では像を結ばない周辺のボケた画像になってしまう。



(以下、2001/6/15 加筆)

6月11日
池上通信機から連絡があり、キャメラの整備が終わったとのこと。
結論は大変おはずかしい話ではありますが、まず原因の一つに私のチェックミスがあった。
マクロがほんの少し入っていたのだ。マクロを外した状態では問題ないとの事。
そしてもう一つは業務用と放送用のレンズの品質の差である。実際両者を比較させていただいたのだが、確かに放送用レンズの解像力は業務用を上回っている。値段の差といってしまえばそれまでだが。普通の民生用テレビで観賞するのが最終目的ならば業務用で十分かもしれないが拡大映写やフィルムにキネコするとなるとこの解像力の差が問題になってくるかもしれない。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
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撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 2



「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

6月13日
朝8時に集合し東北自動車道を岩手県へ向けて出発する。
平泉・前沢インターで降り、養蚕をしている鈴木さんのお宅へ。真澄を泊めた鈴木家の分家筋にあたるお宅で本家のすぐ側である。蚕は最後の脱皮を前にしてじっと動かない状態。その蚕の状態と桑畑を撮影。翌日北海道・函館へ渡る為に青森へ移動。
この時又大変な事が起きた。東北道を青森へ向かっている途中、車のガソリンが残り少なくなっていたのを知りながら青森まではもつと判断してしまったのだ。しかし予想よりもはるかに多くガソリンを消費してしまったらしく燃料計は危険を知らせはじめた。そしてとうとう青森インター手前1キロ程のところで突然アクセルを踏んでもまったく反応がなくなってしまった。たまたま下り坂だったので惰性で進んで行ったのだがインターのすぐ側で停まってしまった。もうインターが見えていたので車を押して料金所に入り、直ぐにJAFに電話。数十分後には復活したが、ガス欠初体験となった。この日は青森市内のホテルへ泊まる。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

6月14日
快晴。
青森港から函館行きのフェリーに乗る。津軽海峡を船で渡るのは始めての体験である。
船上から夏泊半島、下北半島、津軽半島を撮影。風が強くレンズに波飛沫がかかる。写真ではキャメラに何も被せていないが、この後直ぐに雨用のカバーをしている。

「菅江真澄の旅」

途中イルカが船と平走するのを乗り合わせた小学生達と見たりしているうちに函館山が見えてくる。

「菅江真澄の旅」

函館に到着し、名前は忘れてしまっったが美味しいカレー屋さんでカレーを食べる。
その後函館市立図書館で松前藩やアイヌ関係の資料の調査と打ち合わせ。次に北方民俗資料館へ行き、展示物を見学。夕方まで調査。
時間ができたのでみんなで函館山へ。函館は始めての街なので新鮮である。ロープウエイで頂上へ。夜景で有名な所でテレビ等でも頻繁に目にする光景なのだがやっぱり実際に目にすると感動してしまう。

「菅江真澄の旅」

夕日がよくなりそうな気配がしたので暫く待つと、予想どうり素敵な夕日を見せてもらった。

「菅江真澄の旅」

6月15日
朝一番で函館歴史博物館へ。民俗関連の特別展を見学。
本州からの所謂「和人」と「アイヌ」との関係が少し理解できた。これから本格的に勉強しなければならない。旧土人法等の差別等、アイヌ民族の受けてきた差別とは? 
菅江真澄が記録した江戸期のアイヌの暮らしはそういった意味でも貴重なものとなっている。
函館を後にし、南茅部町へ移動。町役場で昆布漁の情報を確認。漁業協同組合へ行き、7月の昆布漁撮影の打合せ。午後、町の歴史家のお宅にお邪魔して真澄関連の情報を集める。鳥ヶ崎へ移動。真澄はここでアイヌの村を記録している。今はもちろん防波堤で砂浜が消え、真澄の頃の面影はない。
そのまま八雲へ北上、途中キタキツネを数匹見かける。遊楽部(ユーラップ)川に沿って山越えし熊石の木村旅館へ泊まる。夜食事をしていると宿のおじいさんがやってきて、明日行く太田権現や海で遭難した人の話等を聞かせてくれる。

6月16日
太田権現へ。今回のロケのメインイベントとも言える場所。その昔修験の人々が開いた場所できつい登りが続く険しい山道である。海辺からすぐに急な階段があり、その後の道も相当に険しい。息が切れる。

「菅江真澄の旅」

写真でも解るとおもうが道にはロープが張られておりそれに掴まらないと登るのが困難なほどの角度が続く。しかも我々はキャメラや三脚をかついでいるのだ。今までけっこう山には撮影で登っているが、ここは一番きつい。もちろん歳のせいもあるだろうが。普通の人なら40分程で登るといわれる道を1時間半かけて登った。
しかし、これからがまた大変で、およそ7メートルの垂直な崖を鎖に掴まって登らなければならない。落ちれば百メートルちかくはは落ちていってしまうような状況である。もう必死で登る。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

崖の中腹に幅5メートル奥行き3メートル程の穴があり、権現はその中にある。
何とか無事に登ってみればそこは想像以上にせまい。遠くの海上には奥尻島を望む事ができる。撮影を始めるが、狭いので苦労するし落ちればただでは済まないし、何とも形容しがたい撮影であった。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

撮影を終え、昼過ぎに下山。膝が痛い。とにかく昼食をと近くの町へ。しかし食堂がやっていない。仕方がないので小さなスーパーでカップそばを買い、みんなで食べる。何だか侘びしいような楽しいような。再び太田権現へ戻り、下からの情景を撮影。みんな疲れきってしまう。
江差へ向けて移動。途中で浜の情景を何ケ所か撮影してこの日は江差へ泊まる。長い一日であった。

6月17日
江差町、船問屋「中村家」を訪ねる。
このすぐ隣を九艘(くそう)川という川が流れていた筈なのだがない。通りがかったおじさんに聞くと道の下に隠れてしまっているとの事。その方が町の方で詳しそうだったのでそのままお話を撮影させてもらう。暗渠になってしまった九艘川が下水溝のような細い流れで道の脇を流れている。
姥(うば)神社へ。この一体がにしん漁で栄えたのはここに祭られている老女が漁の方法を教えたのが始まりだという。この老女を祭ったのが姥神社である。北前船での交易をしのばせる絵馬が奉納されている。そのすぐ横にやはり大きな船問屋「横山家」がある。昔は弁天島、今鴎(かもめ)島と呼ばれる島が江差のすぐ前にある。現在は埋め立てで陸続きになっている。この島の上から江差の町撮影する。
足が痛い。昨日の太田権現がかなり効いている。特に下りの坂や階段がしんどい。膝が笑う状態。日頃の運動不足が祟っている。
この島の外れに今も残る北前船の係留跡を撮影。上ノ国町へ。花沢の館(たて)跡を見、勝山の館へ。道を聞いた人が菅江真澄に関する事なら黙っていられないと案内してくれる。

「菅江真澄の旅」

隣には夷王山がある。武田信広が蝦夷を侵略した、その始まりの場所でもある。
アイヌ民族の問題もあり複雑な所である。

「菅江真澄の旅」

松前に移動。この日は松前に泊まる。

6月18日
まだ痛い足を庇いつつ出発。真澄が北海道へ上陸した場所を捜す。
ここで北海道編のオープニングを撮影することになる。

「菅江真澄の旅」

松前の教育委員会へおじゃましてお話を伺う。
松前藩主武田家のお墓に行き、真澄と交流のあった信広と文子の墓を撮影。蚊の攻撃に悩まされる。
次に松前城の中にある資料館で撮影。

「菅江真澄の旅」

突然飯塚監督が15日に泊まった「木村旅館」のおじいさんの話を撮影したいという事で、旅館へ向かう。
菅江真澄も旅をしながら地元の人々の話を記録しているのに重ねようという具合。日の大分傾いた浜でおじいさんの話を撮影させていただく。耳が遠いので話が通りにくいが、何だか風景ばかり撮影していたせいなのか撮っていてほっとする。
渡島(おしま)半島を横断して八雲へ。この日は八雲泊まり。この日やっと洗濯をすることができた。

6月19日
八雲を出て一旦鳥井崎まで南下。真澄はここでアイヌの暮らしを記録している。
撮影後二度八雲へ。游楽部川を下見。北海道編の中役者を使って真澄の書いた画とダブらせる場所を捜す。

「菅江真澄の旅」

白糠川へ。ここで真澄はアイヌの家へ泊まり、その生活を記録している。
高速道路のようにトラックが通りすぎる道端で撮影。海岸に出ると砂浜が続いている。
虻田町へ。有珠の噴煙の下に広がる町である。ちょうどこの日避難勧告が解除になったらしい。
情報を求めて教育委員会へ。江戸末期の噴火で真澄が歩いた頃と地形が変わっており中々確証が得られない。

「菅江真澄の旅」

洞爺湖を見に行く途中、昭和新山を通る。生きている山という感じである。真澄の時代にはなかった山でもある。

「菅江真澄の旅」

平取(ビラトリ)町の二風谷(ニブタニ)へ向かう。雨の中3時間程で到着、二風谷荘へ泊まる。

6月20日
二風谷には真澄はやってきていないが、現在アイヌ関係の習俗や再現されたコタン(村)等が集中している。
そしてアイヌ研究の第一人者である萱野茂さんもこの二風谷に住んでいる。朝、萱野さんのお宅へ伺う。萱野さん自身アイヌでありおばあさんのアイヌ語を覚えていてアイヌ関係の著作も相当数書かれている。
私自身、奄美大島出身の両親を持っているので血は沖縄南方系であり顔もいかにも沖縄地方の顔をしているせいなのか、萱野さんに妙に親しみを感じてしまう。実際アイヌと沖縄の人々の顔つきは非常に似ているのだ。人類学的にも共通の祖先を持っているのかもしれない。
萱野さん自ら作り上げた文化資料館を見学。ちょうど修学旅行の中学生がやってきていて、萱野さん自身がアイヌについて語っていた。

「菅江真澄の旅」

アイヌ独特の模様が美しい木の皮で編まれた衣装。

「菅江真澄の旅」

チセ(住居)の集まりコタン。

「菅江真澄の旅」

独特の文化を持った人々が江戸期以前には東北まで住んでいたのである。
幕末にかけての蝦夷地政策の中アイヌの文化はシャモ(和人)によって急速に失われていったようだ。私自身まだ勉強不足なので本当に和人がアイヌ文化を滅ぼしてしまったのかは分からないが、勝山の館で見た、和人とアイヌが並んで埋葬されているような状況から推測するに一方的な支配、被支配という関係ではなかったのではないかと思う。もともと北方を中心交易をしていたアイヌ民族は積極的に和人と関わっていったのではないだろうか?
しかしこれも明治以降は土人法なる法律でアイヌ文化を徹底して日本文化で塗り替えようとしたようだ。今回本当に少しであるがアイヌの文化を垣間見れたのはわたしにとって貴重な経験になった。
この日は朝から雨であったが、次に来る時は明るい陽光の中の二風谷を見たいと思う。夕方、新千歳空港へ向かい、私だけ一足先に東京へ戻る。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 3



「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

7月17日
青森の下北半島・むつへ入る。東京を朝7時台に出てむつ到着は午後6時におよぶ長距離ドライブとなった。                          7月18日 恐山へはじめて登る。と言っても車でであるが。その異様な光景に圧倒される。
入り口近くにはイタコが小屋掛けしていて、口よせをしているし、硫黄の臭いが満ちあふれる霊場はこの世とは思えない世界だ。
真澄はここへ5回も訪れ、32泊もしている。よっぽど気に入っていたようだ。
後日行なわれる「例大祭」ですぐにくるのだが、今日はそのロケハンも兼ねている。しかし、「例大祭」当日はかなりの混雑がみこまれるので普段とは趣が違ってしまうため、極楽浜や無限地獄を撮影する。その後鳴海さんという郷土史家の方の案内で周辺を見て回る事にする。

7月19日
昨夜は下北にある佐井村の「かわばた旅館」へ泊まる。朝食は抜き。
その理由は私が船に弱いせいである。今日は朝から船で仏が浦まで行く予定なのだ。小さい頃から船には弱かったので、いつの頃からか船に乗る前には食事をしない習慣になってしまった。
午前9時過ぎに佐井港を出発、天候は生憎の雨、

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

しかし海はべた凪で安心。船上から様々な風景をキャメラにおさめる。1時間程で仏が浦に到着。先月、連絡船から見た時は遠かったので近くで見るのはこれが初めてである。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

自然は何故このような風景を造り出すのか・・・実に不思議である。
天候も晴ればかりでない方がいいと思っているので気にはならない。ひとつだけ気になるといえばレンズ前につく雨粒だろうか。これも悪天候を印象ずける表現だと思う。
船酔いもなく佐井港へ午後1時過ぎに戻る。雨あしの強まる中佐井村の長福寺でお墓を撮影。これも雨がよくにあう。実際の生活の中に様々な天気があるように、撮影時も実に色々な気象がある。今回はそういった天気にさからわず、逆にその天気を味方にしていこうと思う。
夕方、イカ漁の漁り火を撮影しこの日はむつ市の矢立温泉へ泊まる。

7月20日
朝食後、8時30分に出発。東通村の岩屋へ。
霧の中ロシア船が来たというイメージを原始的な手法で再現する。東急ハンズで買ったプラスチックの板をレンズ前につけ、ワセリンを手で調整しながら塗るというだけのもの。これで結構効果はあると思うのだが・・・
昼食後、再び恐山へ。

「菅江真澄の旅」

例大祭が今日から始まり、人々が観光バスや自家用車でやってきていて凄い賑わい。
イタコさんの前には百人以上の人が行列を作っている。およそあの世というイメージから遠く離れた、さしずめ霊のアミューズメントパークである。
撮影許可もうるさく室内の撮影を申請していたにも拘わらず、NGとなる。

「菅江真澄の旅」

真澄の画に合わせて恐山の全景を撮り、極楽浜、血の池地獄、賽の河原等も撮影。

「菅江真澄の旅」

それにしても本当に暗い雰囲気がない。
人が大勢いるせいなのかもしれないが、ここがあの世である事を忘れてしまう。異界はこのようにあっけらかんとしたものなのだろうか。

「菅江真澄の旅」

江戸時代、真澄の頃も人々で賑わっていたようだが、今のように車で一気にきてしまうのとは違い山の麓から歩いてくることで、世界が変わって行く事を実感していたのかもしれない。
我々スタッフも皆にならい「霊場アイス」なるものを食べ、ビールと焼き鳥の待つ俗界へ戻る事にする。

「菅江真澄の旅」

むつの街へ戻ると俗界の享楽を象徴するように花火が上がった。

「菅江真澄の旅」

7月21日
朝一番で恐山へ。混雑を予想して早く出たのだが杞憂に終わる。
イタコさんへの取材を申し込む為に1時間半列に並ぶ

「菅江真澄の旅」

こんなに人気があるものとは思わなかった。暑さでふらふらになる頃やっと順番がやってくる。
イタコさんへの取材は直接交渉なので、ことわられる事を想定してスタッフ3人で手分けして並んでいたのだが、私のところのイタコさんが声の調子もよく、たまたま前に並んでいた方が口寄せしているところを撮影してもよいと言ってくれたので取材させていただくことに。

「菅江真澄の旅」

亡くなられた娘さんを呼んでもらっていたその方は涙を流してその言葉を聞いていた。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」
左から 栗林豊彦(録音) 飯塚俊男(監督) 塩野哲也(助監督) 各氏

北海道へ移動する為に大間へ。
奥戸(オコッペ)へより実景を撮ってフェリーに乗り函館へ。函館から宿泊先の鹿部へ入る。

7月22日
早朝3時半起床。尾札部漁協へ。
南茅部一帯で行われている昆布漁を撮影する為である。5時前にチャーターした船でスタンバイする。5時半、漁協のスピーカーからの合図で一斉に漁が始る。

「菅江真澄の旅」

次々に引き上げられる昆布に圧倒される。3人から4人の乗った船には昆布を採る人切る人等の役割分担があり、整然と作業が進む。船の上には昆布が山のように増えていく。

「菅江真澄の旅」

7時半に再び漁協から放送がありこの日の漁は終了する。船上から撮影は全て手持ちで処理する。休む間もなく八雲へ移動。役者さんを使って、真澄が游楽部(ユーラップ)川を渡るイメージを撮影。すぐに海辺へ移動し浜を歩くイメージも撮影。その頃には雨が激しく降り、撮影コンディションとしてはかなりハードなものとなった。移動を含め2時間程で8カットを撮りあげる。すぐに平取へ向けて移動。9時過ぎに二風谷荘に到着。今回の作品の案内役でもある赤坂憲雄氏と合流。        

7月23日
萱野茂氏のもと、アイヌ民族の習俗を撮影する。酒宴、食事の再現。鶴の舞いやユーカラ、ムックリ等も周辺の人々の協力で再現していただく。アイヌの人々が培ってきた文化の豊かさに感銘する。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

萱野氏へのインタビュー、赤坂氏のコメント等を撮影。(この日は写真を撮っているヒマがなく、写真がありません)この日も二風谷荘に宿泊。

7月24日
朝から資料館で民具等を撮影。昼過ぎに二風谷を後にし松前へ移動(しかし、本当に北海道は移動が大変だ)途中、游楽部川へ寄り、先日撮り残した川の風景を撮影後、函館を経由して松前到着は9時を過ぎた。

7月25日
真澄が北海道へ上陸した地である松前沖の口番所後で赤坂氏のコメントを撮影。街の情景も撮影し、上乃国へ移動。
ここには勝山館という遺跡がある。館というのは自然の地形を利用した城のようなものなのだが、街としての性格も合わせ持った場所の事。最近の発掘調査で和人(シャモ)とアイヌが共存していた事をうかがわせる発見があり今後の調査が期待されている。特に墓地の中に和人とアイヌが隣あって埋葬されていたものが発掘され、増々和人の一方的支配という概念を覆そうとしている。夷王山、勝山館を撮影。函館へ戻る。

7月26日
市立函館図書館にて終日資料撮影。

7月27日
上乃国勝山館の出土品を撮影。学芸員の松崎氏に話をしてもらう。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

実景を撮影し虻田へ移動。

7月28日
有珠山を撮影。1月前に避難解除になったばかりである。
真澄の記述の中にも地震が記録されているが、まじかに見る噴火口は生々しかった。
長万部に移動。江戸の当時オットセイがかなり捕れたらしい。オットセイ奉行というものまであったという。
八雲でアイヌの場面に使うイメージを海岸にて撮影。
浜に釣り糸に絡まれた鴎が1羽もがいているのを発見。スタッフ1同で糸を切ってやるも羽が既に壊死状態なのかもう飛ぶ事が出来ない。なすすべもない。録音の栗林さんがせめてもの風よけにと周りを木で囲っている姿が印象的だった。

7月29日
南茅部で真澄にならい船で「ふるべの大滝」等を撮影するつもりだったのだがチャーターした船の漁師さんが波が荒くて船を出せないとの事。急遽地上からの撮影に切り替える。崩落が激しく使われなくなって30年程の旧道を100メートル程入った崖っ淵を少し下りた所からなんとか滝を望む事ができる。
キャメラを持って下りていくと蛇がとぐろをまいてじっとしている。刺激しないように少し離れた所で撮影する。撮影が終わり、崖を登るとそこにも蛇が。ここはどうやら蛇の巣があるところのようだ。函館に移動し、フェリーにて北海道を離れる。青森にて一泊。

7月30日
帰京。
今回は写真を撮っている余裕がなく充分に雰囲気を伝える事ができなくて少し心残りである。次回は8月12日からの予定である。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
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撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 4



「菅江真澄の旅」

8月11日
お盆の渋滞をさけ夜に出発。

8月12日
朝の6時過ぎに北上江釣子へ到着。インター近くの温泉に入りしばらく仮眠。水沢市埋蔵文化センターへ。
伝説の「悪路王(あくろおう)」等の資料を撮影。
今回、撮影監督の奥村祐治氏(「初恋 地獄編」羽仁進監督・「オーロラの下で」後藤俊夫監督 等)より三脚をお借りすることができ、懸案だった三脚の問題が解決した事を報告しておきます。

「菅江真澄の旅」

ビンテンの初期のものらしいが、非常にスムースにパンニングができ、満足している。この場を借りて奥村氏の御好意に感謝いたします。

「菅江真澄の旅」

胆沢城の跡を撮影。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

江釣子史跡センターへ移動。ここで作家の熊谷達也氏と合流。
蝦夷(えみし)と呼ばれた、東北の人々を偲ぶ遺物を撮影する。

8月13日
ロケハンでも訪れた達谷窟(たっこくのいわや)へ。
蝦夷を制圧した大和朝廷側の坂上田村麻呂をまつる西光寺である。
近年起こりつつあるアテルイ(蝦夷のこと)を見直す動きに敏感になっている。大和側の文献では悪路王は悪とされ、東北の人々を蝦夷と呼び差別していた。これがひっくりかえるかもしれないのだから当然だろう。今ある歴史の認識はこの大和側からの視点で作られているのだから、注意しなければならない。

「菅江真澄の旅」

北上川の四丑橋(しうしばし)近辺へ移動し、熊谷達也氏のインタビューを撮影。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

8月14日
中尊寺から衣川周辺を撮影。昼に赤坂氏と水沢江刺で合流。原体剣舞(はらたいけんばい)を撮影するために移動。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

子供達による勇壮な舞い。夏空の下、稲やひまわりが踊りをよりいっそうひきたてていた。
宮沢賢治がこの剣舞を見て、アテルイについておもいをはせた詩碑の前で赤坂氏のコメントを撮影。

8月15日
趣のある旧い旅館を出、神明社という神社へ。
アテルイを記憶する為の碑を撮影。
その後赤坂氏と共に6時間かけて下北の奥戸(おこっぺ)へ。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

地元の菅江真澄研究家、野崎氏の案内で奥戸の牧(馬を放牧しているところを牧という)を撮影しようとするも、逆光がきつく、奥に見える海を見せる事ができない。野崎氏の好意で借りる事ができたクレーンまで準備したのだが残念ながら今日の撮影は断念する事にする。(詳しく解説すると、手前にある牧の緑と奥で光る海の露光差が激しく、両者をラチチュードの中におさめる事が出来ない状態)(ビデオはこの点フィルムに比較すると描写できるラチチュードが狭い)
かわばた旅館にて田中忠三郎氏と合流。田中氏が語る青森の習俗の話で夜遅くまで酒宴が続く。

8月16日
朝6時に起床。
佐井から青森までの連絡船の出航を撮影。
かわばた旅館で朝食後昨日できなかった牧の撮影のため奥戸へ。工事用のクレーンだが高さがほしいので使用する。
飯塚監督自らの操作でクレーンショットに挑む。

「菅江真澄の旅」

普通、工事用のクレーンではスムースにアップダウンできないのだが、数回のトライで何とかOKをだすことができた。
奥戸の廻船問屋「仙台屋」に残る材木石の塀を撮影。

「菅江真澄の旅」

佐井の矢根の森神社へ移動し真澄(この当時は白井秀雄と名のっていた)直筆の礼状を等を撮影。
次の撮影の時間がせまっていたため簡単にパンの昼食をとる。
午後は廻船問屋として江戸当時隆盛を誇っていた「能登屋」へ。当時を偲ぶ立派な仏壇を撮影させていただく。
再び矢根の森神社へ移動し、田中氏が蝦夷錦を発見した時の状況を当時の青年団の人々にも来ていただいて語っていただく。

「菅江真澄の旅」

佐井の渋田さん宅で真澄に関する資料を撮影。能登屋の外景と矢根の森神社の外景を撮影。
奥戸へ移動し田中氏と赤坂氏の対談及び赤坂氏のコメントを撮影。
佐井へ戻り、お盆の灯篭流しと盆踊りを撮影。

「菅江真澄の旅」

撮影終了が9時前。旅館に戻り食事。何とも長い一日でした。フゥー!!

8月17日
下北・脇野沢へ移動。
寺の過去帳からアイヌの存在を検証。この下北の地にアイヌの人々が暮らしていた。
真澄の足取りをたどり九艘泊(くそうどまり)へ。
北海道・江刺にも同じ九艘の名がついた川、九艘川があった。
下北にはアイヌ語の地名が数多い。
車のライトが2日前から切れていたのを直し、むつ市の「むつ旅館」へ。旅館のすぐ前につぶれた映画館が。少し感傷的になる。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

8月18日
大畑の村林さんのお宅へ。真澄が宿泊した家である。ここに真澄の事を記述した文章が残されている。
昼はラーメンとチャーハンを注文。この辺ではセットと言えども正規の量なので食べでがある。
異国間(いこくま)で村を撮影。
「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

前回のロケで天気が思うようにならなかった恐山釜臥山を撮影。

「菅江真澄の旅」

むつ市田名部(たなぶ)へ戻り、田名部神社の祭りを撮影。
流し踊りと山車がでる優雅な祭りである。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

東京は30度を超しているというのにここは23度。今回はクーラーのお世話にはならなかった。涼しいを通り越して寒いくらいだ。11時頃まで撮影しこの日は終了。

8月19日
天気が素晴らしくよいので海越しに望む釜臥山(かまふせやま)を撮影。

「菅江真澄の旅」
左から 重枝(撮影) 飯塚俊男(監督) 栗林豊彦(録音) 各氏

帰省の渋滞が予想されたので早めに出発。むつ市から東京まで12時間かけて移動。今回のロケを終わる。

「菅江真澄の旅」

次回のロケは9月中旬頃を予定しています。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 5



「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

9月11日
台風15号による影響を撮影するべく予定を変更して本日出発。台風のコースが大平洋側をとっていったので、常磐道で日立へ。激しい雨の中荒れる海を撮影。
青森の鯵ヶ沢へ約4時間かけて移動。今日は鯵ヶ沢泊。
アメリカの貿易センターで何か起きたらしい。

「菅江真澄の旅」

9月12日
朝からアメリカで起きた同時多発テロの話題でもちきりである。
とても現実とは思えない様な出来事である。いかなる理由があろうとも生命を粗末にする行為はゆるせない。

亡くなった人達やその家族の事を思うと悲しくなる。

鯵ヶ沢では台風を待つも、期待を裏切り荒れない。
赤石川と台風の影響で倒れた稲を撮影。稲を1つ1つ起こしている老人が印象的だった。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

平泉へ戻り、中尊寺金色堂や展示物等を撮影。前沢に泊まる。

9月13日
再び中尊寺へ。金色堂やその他の外景を撮影。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

義経最後の地とされる義経堂(ぎけいどう)、柳の御所、衣川古戦場等を撮影後、移動。
碇ヶ関の関所跡、矢立峠、長走(ながばしり)を撮影。
青森へ移動してこの日は青森泊。

9月14日
三内の稲荷神社と八幡を撮影。稲荷ではちょうど改修工事が始まってしまったが、その工事風景も活かして撮影する。
弘前へ移動し天明、天保の飢饉で亡くなった人達の供養碑をいくつか撮影。
五所川原へ移動、泊。

9月15日
岩木川両岸に広がる新田を撮影。

「菅江真澄の旅」

天明の飢饉で亡くなった人を葬った”いごく穴”を撮影。
真澄がこの地を訪れた時は飢饉の直後だったのだが、人から飢饉の状況聞き、記述している。
人肉まで食べたいう話しには戦慄を覚える。賽の河原地蔵尊でもやはり飢饉の死者を投げ込んだ場所が残っている。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

亀が岡遺跡で遮光器土偶(実物大・1万円)を買ってしまう。あぁ!!
前から欲しい欲しいと思っていたのだが、とうとうやってしまった。

「菅江真澄の旅」

木造駅は巨大な遮光器土偶で出来ており、驚かされる。

「菅江真澄の旅」

真澄の歩いた道を撮影後新岡温泉へ泊まる。
外は激しい雨である。
明日は岩木山の祭礼なのでこの雨は心配である。

9月16日
小雨のぱらつく天気。岩木山の御山参りが行なわれる。移動する行列を1カメラで追うのは非常にしんどい。
途中、鬼神社へ移動し撮影。再び御山参りへ戻る。助手なしという条件のきつさを思い知る。30分程の食事と休憩ののち、巌鬼山神社へ。巌鬼山神社の裏に広がる”あそべの森”はいい雰囲気を持つ森である。

9月17日
午前中に真澄のイメージショット数カット撮影。
三廏(みんまや)へ移動。義径寺を撮影。
アイヌを祖先に持つ福沢さんを訪ね宇鉄へ移動。
福沢さんの船で竜飛へ。その船上で津軽海峡の潮の流れについて語っていただく。激しい揺れが撮影をさまたげる。何度か転倒しそうになりながら何とか撮影を終了。

「菅江真澄の旅」

気持ち悪くなる限界すれすれで宇鉄に帰港。福沢さんの所に代々伝わる弁天様を見せていただく。
ふくよかなお顔で実によい弁天様である。

「菅江真澄の旅」

宇鉄の港が夕暮れる頃に撮影終了。宿のある十三湊へ戻る。

「菅江真澄の旅」

9月18日
十三湊名物しじみ汁の朝食を食べ、十三湊周辺の実景及び資料館で資料を撮影。特に山王坊遺跡は実に趣のある場所。

「菅江真澄の旅」

昼食もしじみラーメン。尾上へ移動し、猿賀神社を撮影。坂上田村麿に関係した神社である。

「菅江真澄の旅」

弘前に移動し泊まる。
久し振りのネオンが眩しい。

9月19日
田舎舘(いなかだて)の埋蔵文科センターへ。弥生時代の田の遺跡が残されている。
他にも稲の研究もされていて、寒さに強い稲”赤米”がある。津軽では江戸期より稲の選別がおこなわれていたようだ。
弘前に戻り、地元の真澄研究家七戸さんのインタビューを弘前城にて撮影。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

図書館にて資料撮影後、深浦へ移動泊。

9月20日
深浦の民族資料館にて北前船の資料及び真澄関係の資料を撮影。深浦の町、当時廻船問屋として栄えた「若狭屋」「小浜屋」を撮影。
赤坂氏のエンディングを撮影。青森と秋田の県境にある「お境明神」に移動しオープニングを撮影。旧大間越街道は草に覆われた道を登った所にあった。今では誰も通う事のない道がそこにあった。江戸の頃、真澄もこの道を歩いて津軽へと入っていったのだ。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

9月21日 大館の旅館「花岡旅館」を出発。この花岡旅館は由緒正しい旅館という感じであった。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

二戸の高村さん宅へ。雑穀、特に粟や稗の栽培農家である。赤坂氏との対談や粟稗の畑を撮影。
夜、高村さん宅で夕食を御馳走になる。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

9月22日
二戸のホテル村井を出発。

「菅江真澄の旅」

薬草採りの高橋さんの案内で浄法寺へ。薬草は真澄の専門分野でもある。
高橋さんはいとも簡単に見つけてしまう。

「菅江真澄の旅」

盛岡へ移動。明治橋を渡る真澄。岩手編のオープニングである。
岩手山は見えたのだが、橋の周辺が曇ってしまっていて残念な結果となってしまう。
真澄が歩いた当時架かっていたのは船橋(船を繋いだ橋)で、その資料のあるお蔵で資料撮影。

9月23日
朝から雲一つない快晴。昨日の明治橋が残念であるが、スケジュール的に無理。せめてもと岩手山だけでも撮影。
浄法寺へ移動。稲田を歩く真澄を撮影。近く(場所は書けません)で薬草を捜す真澄を撮影。稲刈りの始った稲は穂先をたれ、秋の気配が辺りをつつんでいる。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

北上川の源流の一つ、御堂へ。

「菅江真澄の旅」

雷で途中から折れた杉の巨木に圧倒される。

「菅江真澄の旅」

金精神社(現・堀越神社)へ移動。男女の性器を表した石が境内のそこかしこにみられる。しめ縄の飾りまで男根をイメージさせる形である。金精さまとして祀られているのも金色の巨大な男根。
夕方5時頃撮影を終え、帰途につく。東京到着は深夜1時をまわった。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 6



「菅江真澄の旅」

10月17日
朝7時集合。東北自動車道を一路秋田県雄勝町へ。
今回から車が新しくなり、実に快調。以前の車が黒煙を吐き、カラカラと音を立て始めていたのだが、とうとう廃車となってしまったのだ。ガソリン車なので走行中も静かで楽チン。

「菅江真澄の旅」

秋ノ宮温泉にあるレトロ館へ。個人の方が経営しているのだが、今回は雪国ならではの習俗を探しての訪問である。しかし、よくも集めたりという感じである。私にも懐かしいと思えるものが多数あった。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

秋田へ移動し、無明舎出版の方達と酒宴。したたかに飲む。

「菅江真澄の旅」

10月18日
二日酔いの重い体を無理矢理起こし出発。秋田県立博物館へ。
館長の冨樫氏へのインタビュー後、民族関係の収蔵品を見せていただく。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

近くにある旧奈良家を下見。

「菅江真澄の旅」

移動中、空が美しい。

「菅江真澄の旅」

鳥海町へ移動し真澄の足跡を調査。鳥海山が美しい姿を現わす。

「菅江真澄の旅」

象潟へ移動し、駅前の秋田屋旅館へ。

10月19日
8時半に旅館を出発。象潟をロケハン。蚶満寺(かいまんじ)へ。境内には猫が数十匹、日向ぼっこをしている。
芭蕉も真澄の100年程前に訪れている。芭蕉の歌碑も境内にあり、真澄もそれを見ている。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

タブの巨木がその隣で時を刻み続けている。

「菅江真澄の旅」

近くで猫がその木をジッと見つめている姿が印象的だった。猫とタブは一体何を話しているのだろうか?

「菅江真澄の旅」

昼頃、赤坂氏と合流。赤坂氏のコメントを撮影。

「菅江真澄の旅」

日が暮れるまで撮影し、秋田市へ戻る。

10月20日
真澄研究会の田口氏と同道し、真澄の墓へ。田口氏と赤坂氏の対談を撮影。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

次に旧奈良家へ。田口氏の単独インタビューを撮影。ここで外光をライトで作ってみる。最小限のライトで何とかしようという努力である。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

阿仁町根子村へ。マタギの村である。
村に住む佐藤氏に案内してもらい山神神社やマタギ関係の資料を撮影。

「菅江真澄の旅」

比立内の松橋旅館へ。この旅館の松橋氏もマタギで、室内で赤坂氏と対談。そのまま泊まる。夕食は何故かここには書けない話題で盛り上がる。

10月21日
朝からどうも調子が悪い、風邪? 松橋さんの案内で近くの栗林へ。松橋さんがスコップで掘るやいなや、縄文土器がザクザク出てくる。何だか芋掘りのようである。その後松橋さんと別れ、戸鳥内(ととりない)、笑内(おかしない)へ行き、撮影。
阿仁へ移動。阿仁伝承館で鉱山関係の資料を撮影。
二ツ井へ移動し作家の簾内さんと合流。加護山製錬所跡で簾内さんのお話を撮影。
加護山から辺りの風景を撮影。

「菅江真澄の旅」

二ツ井の藤駒荘へ宿泊。風邪の状態が芳しくなく早々に休む。

10月22日
加護山、米代川、藤琴川、阿仁川を撮影。釣瓶落峠へ。
前夜、藤駒荘の方が私の風邪の為に色々と食事に気を使ってくれたのが幸いしたのか、今日は調子がいい。白神山地の自然の厳しさを知る。宿に戻り、みんなで酒宴。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」
中央 簾内敬司氏
著作に「千年の夜」「菅江真澄 みちのく漂流」などがある

10月23日
太良鉱山へ。昭和33年に閉山になるまで100年以上の歴史を持っていた鉱山である。廃虚の中を撮影する。
忘れられた神社や高炉の煙突等。白神の山奥にひっそりとそれは時を刻み続けている。
藤里へ戻り、太良鉱山の元鉱夫だった鎌田さんへのインタビューを撮影。

「菅江真澄の旅」

男鹿半島の戸賀へ、夜景を数カット撮影。
角館へ移動し、旅館へ入る。真澄研究会の田口さんと合流。
風邪がまたぶり返してきたようでしんどい。

10月24日
角館の旅館を8時に出発。
鼻水が止まらず、しんどい。
真澄終焉の碑がある神明社へ。ここで田口さんの話を撮影。
移動し、真澄が最後に滞在していた梅沢の大石さん宅へ。
庭にとてつもなく大きな自然石があり驚かされる。
真澄の絶筆が残されている。

「菅江真澄の旅」

田口さんの案内で大森町・波宇志別神社神楽殿へ。平安時代の神楽殿がそのまま残されている。

「菅江真澄の旅」

ここで田口さんのお話を撮影。

「菅江真澄の旅」

大曲インターから一路東京へ。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 7



「菅江真澄の旅」

11月29日
山形芸工大にてインタビュー撮影。今回はこれのみ。
今月は、秋田のハタハタ漁と年末から年始にかけて撮影の予定。
インタビューの撮影後、芸工大の学生達が焼き畑をテーマに撮ったビデオラッシュ、7時間分を観る。
数カ月で撮ったにしては中々のもの。今回はデジカメを忘れてしまったので写真なしですいません。
このところCG製作でほとんど外にはでなかったので、いい気分転換になった。ただCGの追加が出てしまったので、明日からまたこもらなければならない。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 8



「菅江真澄の旅」

12月12日
上野発の夜行列車で秋田県の能代へ。昼間、別の仕事をしていて夜の9時代の夜行に乗車。

12月13日
朝の8時頃能代着。レンタカーにて八森へ。ハタハタ(鰰)漁を撮影するのが今回の目的である。
真澄の遊覧記にある岩館へ。港では刺し網にかかったハタハタを一匹づつ網から外す作業が行われていて、さっそく撮影。寒風吹きすさぶ中で、丁寧に網を傷つけないように作業している人達は大変である。漁自体はもう終わってしまっていた。八森へ戻り、番屋と言われる漁師小屋での食事風景に偶然出くわし撮影する。この後調査をいくつかしてこの日は終わる。

12月14日
午前3時半起床。岩館港へ。猛烈な雪まじりの風。ハタハタの漁は直前に決めるらしく、港で待機。午前7時前になって動きが出始める。刺し網を引き上げ始める。ハタハタが引き上げられる。それにしても物凄い風である。キャメラが風で浮いてしまうほどの風である。望遠を使わざるをえないので画面に風の振動が出てしまう。しかし、どうしようもない。三脚を押さえていても浮いてしまう程の強風なのだ。漁自体が終息に向かっている状況なので、撮るしかない。大荒れの海の状況等も撮影する。波の高さが4・5mはあったのではないだろうか。八森へ移動し、85歳で現役の漁師である工藤さんにハタハタ漁についてインタビュー。町の風景等いくつか拾い、撮影を終了。
能代から東京行きの最終で帰ろうと能代駅に行くと、列車が信号故障で動いていない。東京に行くには又夜行に乗らなければ無理との情報。あっさりと駅前の旅館へ。『駅前旅館』というその旅館は非常にいごこちがいい旅館だった。

12月15日
朝、駅に行くと列車が風の為に運休している。駅の計らいでタクシーに乗り隣の駅へ。ここも学生達で大混雑。しかし、何とか秋田行きに乗る事ができた。雪景色を観ながら上野に3時に帰り着く事ができた。今回もデジカメを忘れてしまい写真が撮れなかったのは非常に残念でした。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 9



「菅江真澄の旅」

12月30日
朝7時集合。この仕事、朝の弱い人には勤まらないかも・・・
夕方5時半に東通(ひがしどうり)着。北上あたりから降り続いた雪が本格的になる。
老部(おいっぺ)の『成田旅館』へ入る。

「菅江真澄の旅」

この原稿を書いている前の窓の外も今は吹雪き。隙間から吹き込む風の音がやけに物悲しい。

「菅江真澄の旅」

12月31日
朝8時半出発。
老部、白糠(しらぬか)の実景を撮影。気温マイナス1度。原発の街でもある。
鹿橋へ。明日撮影する能舞の打合せ。車の中で昼食。午後はここでも廃れはじめているやらくさを撮影。
今日は大晦日。もう20年近くこの仕事をしているが、大晦日に仕事というのは実は始めてである。年越しそばも餅もない大晦日、これといって何もない大晦日ではあるが、この下北という場所で迎えた事はきっと忘れないだろう。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

部屋のテレビでは風のせいなのか乱れた画面の紅白歌合戦。北にいるんだなぁ・・・

「菅江真澄の旅」

2002年1月1日
午前中は白糠の先、物見崎近辺で撮影。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

午後から鹿橋の門付けの撮影。降りしきる雪の中着ているものが濡れて寒い。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

先回り、先回りで雪の中を全力疾走。汗と雪でびしょ濡れ。
昼おし(撮影を優先させ、昼食を遅らせる事)で撮影したため、食事をしたのは3時前になってしまった。

6時から屋内にて権現舞(ごんげんまい)を撮影。外と屋内の気温差が激しく、レンズが曇ってしまう。幸い2時間以上前に、屋内へカメラを入れていたので6時の段階では、曇りはとれていた。
こういった状況の時はビニール袋等でキャメラごとすっぽり包み、密閉した状態で屋内へ持ち込み、温度に徐々にならしていくしか方法がない。いずれにせよ、時間はかかる。因に逆の場合(屋内から屋外)は気にしなくても大丈夫。
夜の8時過ぎに撮影を終え、宿に帰る。それにしても正月からよく働くなぁ・・・

1月2日
8時半に旅館を出発。

「菅江真澄の旅」

東通原発を撮影しつつ、尻屋崎へ。寒立馬(かんだちめ)、といわれる馬の放牧場にて撮影。

「菅江真澄の旅」

冬の間、馬達はここで放牧されている。非常に人懐っこいやつらで、服を齧られた。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

昼食(今回は場所と時期もあって毎日、旅館が用意してくれた弁当である)後、再び鹿橋へ。
屋固めといって村の新築された家で火伏の行事が行われる。権現舞がベースになっている。違うのは権現様が火をつけた松明を踏み付けて火を消す所。ただ調査不足で、その事を知らず、火を消す瞬間がフレームに収められなかったのは残念。
6時から、毎年村で行われる能舞(のうまい)。夜中の12時まで食事を挟んで延々6時間行われる。6時前から三々五々、村の人々が会場の幼稚園へ集まってくる。

「菅江真澄の旅」

小さな子供からお年寄りまで、村の人々が集まってきている。踊りの最中におひねりや御祝儀が舞台に投げ込まれる。
おばあちゃん達は世間話等しながら持ってきたお重を広げている。子供達は真剣に見ている子もいれば、飽きてしまってそこらを駆けずり回っている子もいる。何とも和やかな雰囲気の中で行われる舞いは立派なものである。

「菅江真澄の旅」

12時過ぎ機材を撤収し、宿についたのは1時を回っていた。

1月3日
9時に宿を出、帰路につく。途中、次回のロケ地である尾駁沼(おぶちぬま)でロケハン。
地吹雪が凄かったので、撮影。八戸から高速へのったのが1時。この日は悪天候で、東北道が何ケ所か通行止めになってしまった。帰省のピークとも重なり、結局家についたのは4日の午前6時前になってしまった。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 10



「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

1月13日 朝7時に東京を出発。
午後5時、むつ市「とびない旅館」に到着。天気もよく、実に快調な移動だった。

「菅江真澄の旅」

1月14日
朝8時半に旅館を出発。

「菅江真澄の旅」

釜臥山が綺麗に見えるのでそれを撮影。

「菅江真澄の旅」

むつ市から車で10分程の大利地区へ。
上路(あげち)さん宅でまゆ玉を撮影。

「菅江真澄の旅」

外では庭田植えを撮影。

「菅江真澄の旅」

上路さん宅でお餅や、雑煮を御馳走になる。本当に美味しい。
お昼過ぎに砂子又へ移動し、なえどりを撮影。子供達が7人、村の各家を回り、お年玉やお餅を貰うという行事である。
屋外と屋外の明るさの差がきつく、苦労する。比較的簡単に撮影を済ませ、移動。
途中、気になっていた木があったので、それを撮影。

「菅江真澄の旅」

夕方、4時前に撮影を終了。宿へ戻る。

1月15日
8時半にとびない旅館を出発。青平川周辺の風景を撮影。曇っているのだが実に暖かい。時々降るのも雨である。
東通、蒲野沢(がまのさわ)へ。田植え餅つき躍りを撮影。
女性達が、色鮮やかな衣装を着て村の各家を回る。家の中で華やかな踊りが躍られる。

「菅江真澄の旅」

昼食を宿が用意してくれた弁当で済ませる(前回もそうであるがここ下北では、大きな街まで戻らなければ食堂などの店がほとんどない)
真澄の道程を辿って砂子又、上田屋、下田屋、小田野沢をめぐる。途中、左京沼、荒沼を撮影する。
今日の宿泊先、泊のやまいちホテルに着いたのは5時前になった。役者の伊藤さんとも合流。伊藤さん差し入れの日本酒に酔う。久し振りの大きな風呂で十分くつろぐ。

1月16日
吹雪きをねらいたかったのだが、天気は曇り。
雪も溶けてしまっている。厳しい下北の冬を表現したかったが仕方がない。天気が相手ではどうもがいてもしょうがない。
日建から高所作業車を借り、尾駁沼の畔で撮影。伊藤さんが草鞋に橇(かんじき)なので、大変である。
作業車のクレーン上も結構寒い。伊藤さんの体調等も考えると一発OKにしたい。それなりに緊張。
今回は他のカットも含め全てワンテイクでOK。

「菅江真澄の旅」

役者さんの気持ちをいい状態で持続させる事は非常に重要な事で、いい演技を記録したいと考えるならば、役者さんの精神状態まで考えなければならない。映像は決して、監督やキャメラマン個人の意志で出来上がるものではないのだから。
伊藤さん絡みのカットを数カット撮影して、伊藤さんはお疲れさまになる。
我々は尾駁周辺の実景を撮影に。六ヶ所の原発を外から撮影していると、警備なのだろう、我々に声をかけるでもなく遠巻きに監視している。我々が移動しても後をしばらくついてくる。声をかければいいではないかと思うのだが。
再びとびない旅館へ戻り、この日は終了。

1月17日
朝から待望の雪。大畑の正津川、憂婆寺近辺で撮影。
海沿いの堤防の上からの撮影では、よせてくる波を避けながらの命がけの状況。ちょっと危険すぎたかなと少々反省。
キャメラの上にもあっという間に雪が積もってしまう程の雪。寒さをしばし忘れての撮影となった。

「菅江真澄の旅」

むつ市を経由し、脇野沢へ。久々に弁当ではない昼食。因にメンチカツ定食。
夏にも一度訪れた悦心院へ。住職の安田氏とアイヌの祖先といわれる脇江氏にお話を聞く。

夏のシーンに入るので、安田氏には薄着になってもらい恐縮する。

「菅江真澄の旅」

再びむつへ戻り、今度は下田屋、上田屋、砂子又へ。
真澄が歩いた主観をイメージするべく撮影する。

「菅江真澄の旅」

ビデオと言えども明るさの限界がきて、4時過ぎに撮了。とびない旅館に戻る。

1月18日
とびない旅館を後にして、昨日撮り残した青平川周辺のカットを撮影に向かう。先日も撮影しているのだが、昨日の雪で風景が一変、急遽撮り直しとなった。

「菅江真澄の旅」

津軽の金木へ移動。撮影や食事、そして予定していた道が冬期通行止め等で結局5時間近い移動となった。
雲祥寺にある地獄絵を撮影。太宰治の斜陽館から数十メートルと離れておらず、太宰自身もこの地獄絵を見た印象を作品の中で語っている。

「菅江真澄の旅」

通常のDVーCAM撮影とデジカメの両方で撮影。デジカメの方は、後でコンピューター処理を施すためである。
今日は青森に宿泊。

1月19日
赤坂先生が三沢空港へ来るので、迎えに。紀伊国屋の方も一緒である。尾駁沼へ移動。
現場での打ち合わせで急遽撮影場所を変更。
東通の砂子又へ移動。村で管理している「旧・田中家」へ。
ライティングで何とか雰囲気を捉まえようと考える。

「菅江真澄の旅」

赤坂先生の話を撮り、田中家の外観を薄暮の状態で撮影するためライティング。条件が良かったのか空がいい感じである。
三沢にある古牧温泉へ。一大温泉ホテルに宿泊。赤坂先生の出演場面が今回で一段落ついたので、お疲れ様を兼ねての配慮である。お酒が進み、話は映像に関してになり、夜中の2時まで語り合う。

1月20日
古牧温泉ホテルの支配人直々に、澁澤栄一邸や民族資料館を案内してくださる。
特に、東北各地の民具や習俗に関する資料は凄い。おそらく日本一であろう。
平泉、毛越寺へ。
この作品のスタートとなったのが毛越寺のロケハンだったから、感慨深いものがある。キャメラマンの木村君と合流。
助手時代からの付き合いで、もう10年以上色々と手伝ってもらっている人である。
延年の舞をメインに様々な行事が行われる。

「菅江真澄の旅」

延年の舞自体は夜の9時から二時間半程。撮影等は一切禁止になっているが、今回寺側の特別なはからいで撮影が実現したのだ。
雪こそ降っていないが、しんしんとした冷気の中、常行堂は厳かな舞の舞台となり、時間の感覚が奪われるような錯覚さえ覚えた。

「菅江真澄の旅」

1月21日
昨夜の常行堂前で赤坂先生の最後のコメントを撮影。

「菅江真澄の旅」

毛越寺の実景を木村君に撮影してもらう。

「菅江真澄の旅」

台風のような雨の中、一路東京へ。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 11



「菅江真澄の旅」

2月 8日
朝10時集合と今回はゆっくりめである。
ただ、朝起きがけからのどがおかしい・・・風邪の時のあの感じ。
やばいなぁと思いつつ、今日は移動のみなのでとタカを括っていると、ぐんぐん熱が上がってくる。関節がいたい。
胆沢の焼け石旅館へこの日到着するも食欲がまったくなく。薬を飲んで早々に寝る。

2月 9日
予想通り熱も下がらなければ、咳もひどくなる。今回デジカメを忘れてしまい画像を撮る事すらままならない。
出店(でと)の村の人々が行なう小正月行事を撮影。
不思議と撮影中は熱や咳の事も忘れてしまうのは悲しい性なのか?

2月10日
男鹿半島へ移動し、真山神社の「なまはげ紫灯(せとう)祭り」を撮影。
なまはげはみなさん御存知だとおもうが、現在一般の家へ訪れるなまはげは行なわれておらず、この祭りでかろうじてイベント化して残っているのみなのだ。

「菅江真澄の旅」

風邪もやっと落ち着く徴候をみせはじめる。2日振りになまはげ温泉へひたり、つかれを融かす。

2月11日
八郎潟で真澄は氷下漁を丹念に記録している。
漁自体は八郎潟が干拓されるまで続いていた。今日はまずその漁を実際に経験している漁師さんにお話をうかがうところから。

「菅江真澄の旅」

漁具を保存展示してある場所でインタビュー。体のだるさがとれない。風邪が完全には治っていないようだ。
一年を通じ豊かな漁場だった八郎潟の姿がよみがえる。干拓によって一大稲作地帯へと変貌をとげたわけだが、今や減反の時代。複雑なおもいではある。秋田県立博物館側の奈良家へ。以前改修工事が始まってしまい、撮り残した分である。
役者の伊藤さんと合流。

2月12日
八郎潟、残存湖岸にて真澄の歩きを撮影。朝からけして穏やか天気とはいいがたく、真澄役の伊藤さんはわらじなので大変である。
現場に着くと、すぐに猛烈な吹雪がやってくる。気温も-5度まで下がる。呼吸していて肺が冷たくなるのが分かるちょっとした小康状態を狙って撮影する。残念ながら寒風山は見る事が出来なかった。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

体に悪寒を感じはじめる。伊藤さんもがたがたとふるえながらの演技、お年を考えても頭が下がりました。伊藤さんと八郎潟駅で別れ、秋ノ宮まで3時間かけて移動。みるみる熱が上がり、以前よりひどい状態になった。

2月13日
昨日の寒さがこたえたのだろう、体調は最悪。キャメラを持っただけで頭がずきんずきんする。足下が時々ふらつく。
秋ノ宮博物館にて雪関係の民具を撮影する。わらぐつ等は実際に身につけていただき、使い方みせていただく。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

湯沢に移動し現在の冬の習俗を拾う。

「菅江真澄の旅」

2月14日
柳田へ。真澄がここへ宿泊し、雪囲いについて記述している。
雪に埋もれた神社が何かもの寂しい。
田茂沢へ。真澄が鳥海山を見ながらやってきた場所。今、除雪もこの村までで、反対側へ抜ける事が出来ない。
真澄はこの村で夕日に輝くつららの印象を記述している。

「菅江真澄の旅」

横手へ。かまくら祭りの初日。
小学校の横で、子供達が甘酒や餅を観光客等にかまくらの中からふるまっている。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

屈託のない元気な子供達である。今日から4日間、この横手はかまくらの町となる。
風邪の方も何とか持ち直してくる。

2月15日
帰京。暖かいところへ向かうにつれ、風邪も楽になっていく。


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 12



「菅江真澄の旅」

6月25日
朝7時30分集合。車で一路愛知県岡崎へ。11時着。
梅雨空の中、撮影を始める。東海道の中でも賑わっていた岡崎の宿である。
真澄はここで様々な教養を身に付けたらしい。東海道の中でも賑わっていた宿場であり、徳川の出発になった地でもある。
午後から次第に雨脚が強まる。しかし、雨もまた良しである。日本は雨の国でもあるのだ。茫洋とした景色もこれまた日本。
しかし、雨脚はさらに強まり、さすがに続行不可能というところまで撮影し、本日はお疲れ。

6月26日
岡崎を流れる矢作川。そこを渡る新幹線を撮影に。その後、豊橋へ移動。
博物館で資料を見せていただく。旧東海道と現在の国道1号を撮影。
地元の研究家の方から白井家の話をうかがう。
真澄の旅のスポンサーだっと推定される、植田家へ。
真澄関係の資料とお話をうかがう。
真澄が深浦から送った、ロシアのコインが保存されている。しかし、現在にいたるもその他の手紙のたぐいは発見されていない。宿のある岡崎へ戻り、この日を終える。

6月27日
今日も朝から雨。ロケ初日から3日連続雨。しかし、天気待ちなどという贅沢はしていられない。雨の中撮影を始める。
岡崎にある成就寺。浄瑠璃姫の伝説を伝える寺である。真澄も文章を残している伝説である。浄瑠璃姫が身を投げたという浄瑠璃ヶ淵は今はもうない。
名古屋へ移動。大都会の雰囲気に圧倒される。真澄の痕跡を追って市内を移動、撮影。

6月28日
名古屋市内で朝から通勤風景を撮影。大通り公園のテレビ塔等名古屋らしい景色も撮る。三州街道を北上。真澄の旅の始まりを撮影。浪合村の浪合神社では奇蹟のように日が差し込み、旅の始まりをより印象深いものにしてくれた。中央高速にのり、一路塩尻へ。

6月29日
塩尻市、洗馬(せば)の長興寺と釜井庵を訪ねる。真澄が1年近く滞在し、この後の東北・北海道の旅の準備を進めた場所である。
ここから、本格的に真澄の旅は始まった。夕方まで撮影し帰京。

「菅江真澄の旅」


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ロケハン 編
撮影編1
撮影編2
撮影編3
撮影編4
撮影編5
撮影編6
撮影編7
撮影編8
撮影編9
撮影編10
撮影編11
撮影編12
撮影編13
ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」撮影編 13



「菅江真澄の旅」

7月19日
東北新幹線にて盛岡へ、そこから在来線で青森へ。今回はとりあえず一人での出発。午後12時半、青森到着。
飯塚監督と親しい”おきな屋”さんへ。今回いろいろとお世話していただく事になっている。
真澄の「外ヶ浜奇勝」の原本を撮影するのと、作品のメインタイトルを彫刻家の鈴木正治氏に書いていただく事が今回青森に来た理由である。
まずは田中忠三郎氏の案内で市内の収集家のお宅へ。資料なので、デジカメで撮影し、後で加工する。高さ20センチ、幅15センチくらいの小さな本である。

「菅江真澄の旅」

 ”おきな屋”さんへもどり、鈴木氏にタイトルを墨で書いていただく。
おきな屋は青森のお菓子屋さんの老舗で、美味しいお菓子を沢山販売しており、そこの社長の斎藤喜和子さんには青森ロケの際にはずいぶんお世話になっている。
鈴木さんと最初真澄の話を1時間ちょっとして、いよいよ題字を書いていただく。独特の丸味をおびた文字が美しい。

「菅江真澄の旅」

正式に決まったタイトルは『菅江真澄の旅ーいでは みちの奥 見にまからん』となった。喜和子さんのはからいでとてもおいしい小料理屋で夕食をごちそうしていただいた。

7月20日
青森から秋田へ電車で移動。奥羽本線で弘前、東能代、八郎潟と約2時間40分の旅である。
天気はあいにく雨模様。関東は梅雨明けらしい。秋田到着後2時間、監督達と合流。
秋田県立博物館へ。真澄関係の資料をデジカメで撮影。ホテルに入り、今日はお疲れ。

7月21日
夏休みに入ったせいなのか、ホテルに学生さん達が大勢泊まっている。
いつのまにかこの作品の撮影をはじめて1年以上が経過している。髭の白髪も大分増えたように感じる。8時に出発し、古四王神社へ。

「菅江真澄の旅」

真澄研究会の田口氏のはからいで歌会を再現していただく。インタビューその他も撮影し市内へ戻る。
真澄はこの秋田に晩年定住する。その時の仕事に秋田の様々な地の地誌編纂がある。それを依頼し晩年の真澄と交友のあった人々の痕跡を撮影。天気が良くないのと日が短くなったせいで5時過ぎに暗くなってしまい今日の撮影は終了。
ホテルに戻り、近くの居酒屋で食事。再びホテルに戻る頃に雨が降りだす。部屋で今日撮影した分のラッシュを全員で見る。

7月22日
秋田市内は朝から雨模様。明徳館跡、久保田城を撮影。古四王神社周辺にて真澄の周辺人物について撮影後、十文字へ移動。地誌編纂に関連する実景を撮影。
東京への帰路につく。

一昨年4月ロケハンからはじまり撮影を始めて一年と3ヶ月。東北・北海道・中部と、真澄の足跡をほぼ全て踏破したことになる。総移動距離は一体どれくらいになるのだろうか。
真澄の跡を追う旅は各地の文化や習俗を記録する旅でもあった。ちょうど真澄が残した大量の図絵を現代の映像技術で再確認していく旅でもあった。移動手段が徒歩だった真澄にはもちろん及ばないが、個人的にもこんなに日本各地を撮影する機会はそうはないのではないだろうか。今は心地よい疲労感に包まれている。


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ロケハン 編
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ポスプロ編

実践的製作日記「菅江真澄の旅」
ポストプロダクション編



9月1日
7月のロケ以降作品内に使用する地図やタイトル等の製作を本格的に始める。
8月はほぼCG製作にかかりっきりだった。
8月の23日からはアムールへ毎日通い、合成等の作業で朝10時から夜の11時過ぎまでの連日である。激しい肩こりとの戦いでもある。

「菅江真澄の旅」

「菅江真澄の旅」

これらが10日前後までは続きそうな気配である。
今回は一般的なノンリニア編集をおこなっているが、オペレーターの技術や熟練度等の問題もあって作業は長引いている。

9月8日
下北・北海道・津軽・秋田・岩手と昨日までにフィニッシュできた。予定より遅れが出ている。
今日は実に4週間ぶりの休みである。明日から人物の最終編集の進み具合をにらみながらCG製作を12日まで続け、13日から20日まで別の作品のCG製作と編集、そして21日から29日まで「菅江真澄」の合成作業とCG製作となる。明日から3週間は休めそうもない。

今回の作業システムは一般の家庭レベルのパソコン2台(Win)にカノープスのキャプチャーボード。そして合成をMacのノートパソコンで仕上げるという方法でやっている。
WinパソコンはアムールのものでMacは私個人所有のもの。今回の作業を考え、メモリーをトータルで768MBに増強。自宅のデスクトップにひけをとらない性能を発揮してくれている。編集にはプレミアを使用。合成はアフターエフェクトで全ておこなっている。地図関係の3D製作には「数値地図ビューワー」「Bryce5」「VISTAPRO」「LightWave7、5」を使用している。

このような状況で肩こりがひどく、人からすすめられたアリナミンEXもほとんど効果がない。どなたか即効性のある肩こり解消法を知っていたら御伝授下さい。(しかし、こんな事やってりゃ肩もこるのは当たり前?)

9月21日
他の仕事を間にはさみながらまだやっている。今日からの3日間で地図、合成関係は全て終わる予定。
しかし、最後に『津軽編』に使用する天明飢饉のイメージCGが残っている。これを今月一杯に仕上げ全てが終わる予定だ。これの構想はほぼまとまってきてはいるのだが実際に作り始めるとまた変わるかもしれない。天明5年、秋田から津軽に入った真澄は飢饉の惨状を目の当りにし次のように書き記している。
「道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄や女郎花のおいでているさまは、見る心持がしない。」

10月8日
他のCG制作と平行しながら最後のCGを納品して全てが終了。
ほぼ2カ月半、「菅江真澄」に没頭していた事になる。
メインタイトルの編集・製作・演出やCGカットの演出・製作等、合成処理は1作品平均20カット、CGは10カット程であろうか、それを6本分だから180カット近く処理、製作したことになる。レンダリング時間だけでもどれぐらいになったのか今では考える気にもならない。
デジタル処理の撮影も自分の範疇にしようという目標は達成できたのではないだろうか。
とにかく2年越しで製作した『菅江真澄の旅』はこれで全て終わった。
撮影に関する反省点、CGや合成に関する反省点等多々あるがこれは今後に生かせることだろう。
(CGの一部は近日中に当ページ「CG」へアップする予定です)助手なし、照明なし、撮影にまつわる事は全て(カット割りまで含め)一人でおこなったし、レンズは1本のみ、特機も工事用のクレーンを数回使っただけ。今どきの映像表現としては考えられないくらい機材を使っていない。しかしこれは仕方のない事であり、その事に不満を持っても始まらないと考え、敢て一切の周辺機器を排除し、自分がどこまでやれるのかにチャレンジする事にした。
結果は御覧いただくしかないのだが、自分ではこの状況でのベストをつくした思っている。
『菅江真澄の旅』は今後東北を中心に上映の予定があるようです。
さぁ次の作品に向けて準備をしなければならない、立ち止まってはいられないのだから。

ほぼ、1年半に渡る連載でしたが、この講座はこれで終了いたします。読んでいただいた方達には本当に感謝いたします。

私の拙い文章力でどこまでお伝え出来たのかは自信がありませんが何かのお役にたてていただければ幸いです。
又、「実践的製作日記」で御紹介できそうな作品に巡り会いましたら連載をしてみようと思っていますので、その時まで。


2002年10月 8日   撮影監督 重枝昭典 (2023年1月加筆訂正)



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