この仕事をまつわるあれこれ

元々何故私がこの仕事を目指すようになったのか、そこからお話したいと思います。物心つく前(昭和34年生れ)から映画を見ていました。母が内職の給料を貰った帰りによく連れていってくれたそうです。一番最初の映画の記憶は『海底軍艦』(昭和38年 東宝作品)。円谷英二さんを中心にした東宝特撮映画が全盛の頃だったのです。当時の子供達のほとんどがそうであった様に、私も特撮映画が大好きでした。ゴジラを筆頭に様々な怪獣映画を夢中になって観ていたのです。それと同時にTVが急激に家庭に入り始めた時代でもありました。『鉄腕アトム』『マグマ大使』『ウルトラQ』等といった子供番組が私達を釘付けにしていました。映画とTV、この二つの映像メディアが私の生活の中心でした。当初は普通に観ていただけなのですが、そのうちにその映像がどうやって作られているのかに興味は移行しはじめ、雑誌の巻頭特集等の撮影現場の絵をみてあこがれを膨らませていました。
小学校6年生の時、学校帰りによく覗いていたカメラ屋の主人が8ミリカメラを貸してくれて、始めて映画を自分の手で撮影しました。当時出ていた「小型映画」という雑誌を購読して技術的な事を覚え、中学2年の時に魚屋でバイトしたお金と足りない分を親に出してもらい始めて自分の8ミリカメラを手にしました。それから映画の事しか考えない生活がスタートしました。
時代は前後するのですが、この頃印象に残る出来事がありました。中学1年の時に学校で土本典昭さんの『水俣ー患者さんとその世界』を3時間近く体育館の床に座って観たことがありました。その時の衝撃はかなり強く、以前に怪獣映画の興味から読んでいた本多猪四郎さんのフラハティに関する文の意味が少し分かったように思いました。そのせいなのか中学2年の時に工場廃水の問題をテーマにした作品を製作、これが作品としてまとめた始めてのものになりました。
高校へ進学し、仲間達と40分の『横浜線大爆破』(電車に小道具を轢かれた事がありました。JRさんごめんなさい)を製作。続けて『非常都市』90分と8ミリ映画製作に明け暮れていた高校時代でした。この頃の製作スタイルは製作(資金の準備、スケジュールの調整)、脚本、撮影、照明、録音(親友だった近藤君にかなり助けてもらいました)、編集、監督と主演、ごねる出演者をなだめすかし、ロケ現場の交渉から小道具衣装にいたるまで1人でやっていました。今考えるとよく出来たものだと思います。若さなのでしょうか。この頃には怪獣映画以外の映画も観るようになっていて、小津安二郎監督の『東京物語』を観て涙する高校生になっていました。
すでに将来は映画関係以外考えられない状態でした。進学を考える時も映画関係の学校を候補にし、日大芸術と東京造型大学、専門学校で多摩芸術学園(現在は多摩美の2部)を受験、日芸と造型はみごとに落ち、多摩芸術学園のお世話になることになりました。
この進学問題を考えた時に始めて自分は映画のどのパートをやりたいのだろうかを意識しました。それまでの様に全てをこなすことはプロの現場ではありません。その時に思ったのが、撮影(キャメラマン)は誰よりも映画の誕生に近い所にいるのではないかということです。光があり、影があり、レンズを通してフィルムがあり、キャメラのスイッチを押せば、そこには何かが映る。キャメラマンはその最初の立会人ではないか。キャメラ技術をマスターすれば他の事は後になっても出来るんじゃないかと思ったのです。(この考えは未だに変わっておらず、実際撮影助手の頃はひたすら撮影に関する事を研究していたのが、キャメラマンとして一本立ちしてから急に他のパートの仕事も模索しはじめています)
映画学校では16ミリを中心にキャメラ技術を勉強していました。三年間はあっという間に過ぎ、就職しなければならない時期がきました。しかし映画関係の求人はまったくといってなく正直途方にくれました。卒業しても暫く家でぶらぶらする日が半年程続きました。友人が卒業後に始めた8ミリ映画を時々手伝ってお茶を濁していました。
そんなある日多摩芸時代の友人からあるキャメラマンを紹介されました。その人は読売映画社を退職した人で、退職後もフリーで読売の仕事を受けている人でした。1日のギャラが確か8千円でした。とにかく仕事がしたかった私はそのキャメラマンのお世話になることにしました。TV番組が中心でしたが当時はまだフィルムで制作するのが主流の時代でした。16ミリで技術はキャメラマンと私の二人だけ。
私の仕事はキャメラ回り一切と照明でした。いきなり露出計測をまかされ正直自信はありませんでした。しかも仕事はリバーサルフィルムを使ったもので、露出のミスはゆるされません。キャメラマンに聞いてもTV映画技術という機関誌を読めと言われるだけで、具体的な事は何も教えてくれません。仕方なくその機関誌をひたすら読みました。自分に関係する技術は全てコピーをとりました。スチールカメラにリバーサルフィルムをつめて、計測のデータをとりました。2、3ヶ月で何とか納得のいく結果をだせるようになりました。その後半年程その人の元で仕事を続けました。
ある日、新聞の求人欄にビデオ制作会社の広告をみつけました。何故そんなものに目が止まったかというと、元読売のキャメラマンの仕事量は少なく、月に5、6日程度だったのです。月に4、5万ではいくら20年近く前といっても暮らせません。空いた時にアルバイトとも思ったのですが、撮影の仕事はいつ入るか分かりません。このままではどうにもならないと感じ始めていた時に目に止まったのがその求人広告でした。直ぐに履歴書を送り、面接の後半年間の試用期間の条件で採用されました。しかし、入ってから分かったのですがその会社はブライダルの撮影がメインで企業PRはほんの少ししかやっていませんでした。まぁ取り敢えずビデオを覚えられるぐらいの気持ちで務め始めました。このブライダルの撮影はほぼ毎日あり一日に最低3件程を撮影しなければなりません。しかも編集も自分で撮影したものはやらなければならなかったのです。終電近くに家路につき始発で出社するような生活が半年続きました。そのせいなのでしょう、とうとう結核に感染してしまい即入院となってしまいました。その事が分かったのが試用期間の期限1週間前でした。会社はあっさりと私を解雇しました。(この時の経験は今でも組織に対する不信感の根っこになっています)とにかく病気を直すのが先決と思い、療養生活に入りました。

以下(2001年2月16日加筆)
入院が半年、自宅療養が半年で計1年間が過ぎました。そろそろ仕事をしても大丈夫と思ったのですが、状況は卒業の時と変わりません。映画以外の仕事など考えてもいませんでしたから、悩んだ末、当時市川崑監督でヒットしていた金田一シリーズの撮影をしていた長谷川清さんの住所を調べ、手紙を出しました。以前からその撮影技術に憧れていたからなのですが、どこの馬の骨かもわからん者から突然、「助手にして下さい」と言われても困るだろう事は容易に想像できます。しかし、直ぐに返事があり会って下さる事になりました。結論から言うと、残念ながら「助手の空きは現在はないので」ということでした。しかし、撮影の事やスタッフの事、こちらの質問に丁寧に答えていただき、お会いした新宿の喫茶店で4時間近くお話をしてくれた事は感謝と共に感動しました。そんな事もあってやたら積極的になり、今度は卒業名簿で過去の卒業生へ連絡を取り始めました。何人目だったでしょうか、鹿島映画(現カジマビジョン)の方に拾われ、契約社員としてやっと安心して働ける様になったのです。そしてこれを契機に家を出、独り暮しも始めました。鹿島映画はその名のとうり鹿島建設の子会社で建設記録を中心に仕事をしている会社でした。ここで始めて35ミリのキャメラを覚えました。私が入った頃は16ミリ35ミリのフィルム作品がほとんどの時代で、トンネルや橋、ダムの現場を日本全国飛び回りました。半年ほど経って正社員にならないかと言われた時に又考えました。
夢はやはり劇映画をやりたい。契約の切れる少し前にフリーの道を選びました。この時はまだ何とかなるさぐらいの気持ちでいて、最初のうちこそ鹿島や鹿島がらみの人のつてで仕事を貰っていましたが、仕事は少なく苦労しました。通帳の残高が100円なんて時もあり辛い思いをしました。
この頃の忘れがたいエピソードに、やはりお金がない時だったのですが、一件未払いのギャラがあり、それを先方のプロダクションに取りにいった時の事があります。六本木にあったそのプロダクションまでの電車賃しかなく、まぁギャラが入れば帰りはそれでと当時住んでいた用賀の家を出ました。しかし、渡されたのは現金ではなく小切手でした。途方にくれました。仕方なく家までとぼとぼと歩いて帰る事に......。
6時間、家までの道のりは今でも忘れられないくらい惨めでした。
ところがその後、コマーシャルのキャメラマンに気に入られ、生活はかなり安定していきました。このコマーシャルの仕事では海外ロケも多くすばらしい体験をさせてもらいました。大体が車関係の仕事だったので、所謂観光地ではない場所を観る機会を与えてもらいました。
そんなおり、今度は劇映画の仕事が入ってくるようにもなりました。劇をやりたかった事もあり撮影中は期待と緊張の連続でした。私が担当したのは主に撮影チーフで、露出の計測を中心に助手や照明部との連係を維持するのが仕事です。ラッシュ(撮影済みのネガから明るさや色を調整しない状態でプリントしたもの)試写の緊張は胃が痛くなるぐらいでした。しかし作品として完成すればその達成感には格別のものがありました。(『自己紹介』の中に主な助手時代の作品を記してあります)フリーを選択して本当に良かったと思います。そしてここまで来れたのは、正に人間関係のおかげです。人とのつながりが今の自分を支えていると思います。もちろん技術者ですから技術をしっかりと身に付ける事は必須ですが、それ以上に人間を大切にしていくことが将来に繋がっていくと思います。もう少し別な言い方をすれば、技術や感覚だけでは仕事は広がっていきません。人間関係+技術、感覚でなければ長く仕事を続ける事は難しいと思うのです。そうして、37才の時に助手の仕事には一区切りをつける事に。それ以前も依頼があればキャメラマンとして仕事はしていましたが、これ以降助手の依頼は丁寧に断るようにしました。

以下(2001年3月3日加筆)
 さて、キャメラマンになってからが又大変でした。仕事を求めて助手時代にお世話になったプロダクションを回りましたが、時はバブルの崩壊と騒がれている時期でもあった為、ほとんど反応はありませんでした。あせって何回もアポを取ろうとして最後には居留守を使われたことすらありました。くじけそうになり、何度もやめようと思いました。この時の反省点は、助手時代に人間関係をおろそかにしていたことです。自分の仕事の領域だけをやっていただけで他の(特に監督、プロデューサー)人達とのコミュニケーションを疎かにしていた事です(私が「人間関係」を何度も強調するのも、この時の経験からです)。宅配便のアルバイトをした時期もあります。とにかく助手の頃より確実に生活は苦しくなってしまいました。それでも続けているのは何故か?例えどんな作品であろうと、自分の責任で映像が成立していることの快感とでも言ったらいいでしょうか。小学生の頃に味わった感動が今でも甦るのです。もう後戻りは出来ません。その後出会ったCGもそういった鬱屈した時期故の選択なのかもしれません。現在、撮影という領域を中心にして他の領域へのアプローチを始めています。撮影をやめるつもりはありませんし、転職も現在は考えていません。もうしばらく未来を信じてもがき続けるつもりです。この後、私の人生に続く)

※ これで一旦、私の講座は終わります。でも又、何か思い付いたら書き足すかもしれません。
長文におつき合いくださり、ありがとうございました。
                                       重枝昭典