私がというか、私のようなものがどうして監督になれたのかということを、きっと知りたいのではないでしようか?お教えしましよう。
かって私は映画製作の現場でスクリプターという仕事をしていました。まずそのスクリプターという仕事はどんなことをするのかを、お話しします。「スクリプターの仕事」(映画の撮影は、すべて始めから順番に行われていくわけではありません。ロケありスタジオあり、エンデングのシーンを一番に撮ることもあります。そんな時、撮影されたシーンの記録を取るのがスクリプター(Scripter)です。カットナンバー、画面のスケッチ、回ったフイルムの長さ、俳優のセリフ、OKかNGか、すべてを規定のスクリプト用紙に記入していきます。この記録をもとに編集作業が行われます。)あなたも、撮影現場で監督のそばで、首にストップウオーチをぶらさげている女性の姿をみかけることがあると思います。スクリプターは世界各国女性です。しかしどういうわけか、松竹映画だけが、助監督がやっていました。私はスクリプターのとき5人の監督につきました。
1) 家城巳代治(1911ー1976)
代表作 *雲流るる果てに *異母兄弟 *姉妹
2) 山本薩夫(1910ー1983)
代表作 *真空地帯 *松川事件 *戦争と人間三部作
3) 五所平之助(1902ー1981)
代表作 *マダムと女房ー日本初のトーキー *今ひとたびの *挽歌
4) 今井正 (1912ー1991)
代表作 *また逢う日まで *ひめゆりの塔 *にごりえ
5) 新藤兼人(1912ー
代表作 *愛妻物語 *原爆の子 *縮図 *裸の島
いずれも日本を代表する監督たちです。この5人のすばらしい監督につくことが出来たのは幸運でした。監督たちはそれぞれが所属していた映画会社を辞めフリーの監督として独立プロで映画を製作していました。私も又フリーのスクリプターとして参加したのです。
これから、5人の監督の人柄と演出の仕方やエピソードなどお話します。私は監督たちから有形、無形多くのことを学びました。
最初についたのが、家城監督です。私が22才のときです。「ともしび」という作品でその時は見習いでした。清冽な声の方でさわやかなお人柄でした。映画は集団創造の芸術であることを信条とされ、演出プランも全スタッフと話しあわれて決めていかれました。見習いの私にまで声がかかりました。「のんちゃんはどう思いますか?」ーと(私の名前が昶子、のぶこ、だったことと、のんびりしているので、のんちゃんといわれるようになりました。映画の人たちはニックネームをつけるのが好きです。)撮影現場は、いざ本番になるまでカメラの準備、ライテング、マイクのテストなど待時間が長いのです。その間、監督は高度の感情の持続と緊張感が要求されるのですが、家城さんはむしろ、その待ち時間を喜んでいられました。「スタッフのみんなが、自分のために仕事をしてくれているのだから、感謝こそすれ、待つことは決して嫌ではない」と云われていました。温厚なお人柄がにじみでている言葉でした。1976年65才で亡くなられました。
その後、私は辛く哀しい見習い修行を終えて、漸く2年後つまり24才の時、一人前のスクリプターとして、山本監督の「台風騒動記」という作品につきました。山本監督はスタッフから「さっちゃん」とか「さっちゃん先生」と呼ばれていました。「監督」と呼ばれるのを嫌っていらしたので、私も「さっちゃん先生」と呼んでいました。背が高く、学生時代は芝居に熱中されて舞台にも立たれたこともあった方で、なかなか男前で凛々しい方でした。お酒が大好きでした。肝心の演出ですが、群集シーンの演出がきわだって優れています。群集の動かし方、さばきかたが非常にダイナミックです。演出の大切な仕事にコンテの作成があります。監督によって十人十色です。撮影するシーンをどういう風に撮るかをきめるのですが、さっちゃん先生の場合は、その日によって違いました。台本に線が引かれて、きちんとサイズまで記入されている事もあれば、前の夜、飲んだおでん屋のしみのついた箸袋に、判じもののような字で書かれている事もありました。晩年は枠の中にきちんと絵を描いていらしたようですが、私は箸袋のコンテの時がいい演出だった気がします。いわゆる肩に力が入らないとき、のびのびと演出されていたのではないかと思うのです。さっちゃん先生の一般的評価は社会派のようにいわれ、代表作には、「真空地帯」「松川事件」「戦争と人間 三部作」などがあります。しかし、私は喜劇の演出にも優れた才能を持つていらしたと思います。なかでも喜劇「にっぽん泥棒物語」は「ブルーリボン監督賞」「アラブ映画祭監督賞」「日本映画記者会賞」など受賞している作品です。一見、怖そうに見えるのですが、筋金いりのフェミニストで、照れ屋さんで、どうもラブシーンは苦手のようでした。
私はスクリプターとして2本「台風騒動記」「赤い陣羽織」につきましたが、偶然2本とも喜劇でした。後年、私が監督になった時、一杯飲みながら「僕で役に立つことがあれば何でも云いなさい」と云ってくださいました。73才で亡くなられました。
五所監督には「挽歌」1本につきました。歌舞伎役者のようないい男、すてきな方でした。1931年日本で始めてのトキー第一作「マダムと女房」を作られた事でも、日本の映画史に残る監督です。生涯116本の映画を作られ代表作は「伊豆の踊り子」といわれています。庶民生活をあたたかい眼でみつめ、叙情的に描かれています。又俳句の世界でも活躍されフアンも大勢います。毎年5月1日「五所亭忌」には監督ゆかりの人々があつまり、監督の業績を偲びます。遺影の前に監督の大好物のたい焼きと焼き芋を山ほどお供えします。墓前にはお好きだった黄色の花をかざります。墓碑には「生きることは一筋がよし寒椿」とあります。
私は「挽歌」という作品に一本つきました。1957年監督55才の時です。原作は北海道在住の原田康子さんです。主人公は妖精のような若い女性で、こまやかな心の動きを表現しなければなりません。監督はみずみずしい感性でみごとに表現されました。感性は、年令に関係ないということを学びました。常に物事にたいして敏感に反応する感性は監督にとって絶対条件です。監督は私が所属している日本映画監督協会の理事を16年に亘り勤められ後輩の指導にあたり、「奥の細道」の映画化への情熱をもちつづけながら、1981年79才で亡くなられました。お墓は赤坂の清澄寺にあります。
次は、今井正監督です。残されている写真のほとんどが煙草を吸っていられます。煙草はピースの缶です。
私は1959年「キクとイサム」1962年「にっぽんのお婆ちゃん」の二本につきました。今井さんは45本の作品を作られました。代表作は「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「にごりえ」をあげましたが、個人的に傑作だと思うのは「真昼の暗黒」です。それに私がついたからというわけではないのですが、「キクとイサム」です。今井さんご自身も「そうねえ、あえて一本といわれれば、’キクとイサム’かしらねえ」といわれ気に入られていたようでした。「また逢う日まで」「にごりえ」「真昼の暗黒」「キクとイサム」の4本はビデオになっていますので、機会があったら是非観て下さい。今井演出の特徴は’嘘のないこと’この一言につきます。とことんリアリズムの追求です。人間の行動、言葉、心理それらが、おかれた状況のなかでホントであるかどうかという一点にかかっていきます。コンテはたてられませんでした。あらかじめリハーサルをして、撮影現場で俳優さんたちに、撮影シーンの始めから終わりまで通して動いてもらってから、カットを決められました。そのカット割りは数十人いるスタッフ全員が納得して’これしかないんだ’と思うカット割りでした。私は秘かに自分なら、こんな風に撮るというカット割りをして現場に行くのですが、今井さんと同じだったことは一度もありませんでした。又台詞も、ここはこんなのがいいのではないかと、つくって生意気にも今井さんにお見せするのですが「悪くないですねえ」とは云われるのですが、採用されたことは一度もありませんでした。しかし、現在の私に色濃く影響を与えて下さったのは今井さんのような気がします。今井さんは、実によく映画を観ていられました。暗がりの映画館で明るくなったら隣に今井さんがいらしたり、よくご一緒に観ました。今井さんは「どんなにつまらない映画でも、必ず最後まで観ること、必ず一つは得るものがある」と云われました。
皆さんも映画をたくさん観て下さい。その映画が面白いと思ったら、何故面白いのか、感動したら、どうして感動したのか、一度観て、そのまま二度又べつの角度から観直すこともお奨めです。今井さんは1991年「戦争と青春」という東京大空襲をテーマにした映画を創られ、その映画のキャンペン中に亡くなられました。79才でした。
新藤兼人監督は1912年生まれ、現役のバリバリです。乙羽信子さんは妻というより、同志のような方でしたが、監督演出の「午後の遺言状」を最後に亡くなられました。今は、一人暮しながら、旺盛な創作活動をなさっいます。新藤さんが監督を志ざされた動機は、もともと大変な映画好きであったことと、山中貞夫という監督の映画を観て感動し、どうしても監督になりたいと思われたそうです。しかし、当時も監督志望は狭き門で、助監督にもなかなかつけない状況でした。そんななかで漸く現像場に入る機会があり、現像の仕事をしながらシナリオの勉強を始められます。新藤さんは「近代戯曲全集全47巻を一年がかりでよみました。朝御飯がすむと昼まで、昼御飯がすむと夜まで、夕食後は寝るまでと読みました。僕のシナリオの勉強はこれだけです。」といわれます。一人の人の生涯の中でこんな風に集中して勉強する時期が必要だと思います。
シナリオを書くには、膨大な資料の収集と解読、シナリオハンテング、など書く前の作業と書く仕事がありますが、新藤さんは、書きだしたら非常に早く三日位で書きあげられるようです。人によって何ヶ月もかかる人もいられますから、自分にあつた方法を見つけることです。第一回監督作品の「愛妻物語」は亡くなられた最初の妻がモデルでした。このシナリオだけは、他人にさわらせたくない、どうしても自分で監督したいと39才で監督デビューします。その後も監督としてやりのこしたことがあると次々に監督の仕事をつづけていられます。
私はスクリプターの見習いの時「狼」という作品と、一人前のスクリプターになってから短編映画「らくがき黒板」につきました。新藤さんは現像場の仕事をしながら、シナリオの勉強をし、シナリオでスタート、その後溝口健二監督の美術監督などもなさったので、絵も又非常にお上手でした。撮影コンテは大学ノートの一ペイジに4カットづつ、右には台詞がきちんと書かれています。お酒は全然お飲みになりません。勉強一本です。話術がたくみで、雨が降ってお天気待ちの時など、面白い話をしでスタッフはたのしませて下さいました。現在も、監督はもとより、エッセイ、シナリオ、講演と活躍されています。そして「年をとればとるほど、ますます欲がでてきます。」「年をとったら淡白になるなんてことはない」といわれます。
そろそろ結論に入りましょう「私が監督になれた理由」です。
今井さんの「にっほんのお婆あちゃん」についていた時、ある日突然どうしても監督になりたくなったのです。それで、今井さんに「私は監督になりたいのですけど」とおそるおそるお話ししたら「いいじゃないですか、やつたらいいですよ」と云われれました。と云われたものの、誰も私を監督にしようと云ったわけではなく、当時の環境は’女’が監督になることなど夢の夢、むしろ大きな高い壁に阻まれていました。通常は監督の下で助監督として何年か修行し、監督かプロデューサーの推薦によって監督に昇進します。しかし決意した以上やるしかありません。スクリプターは「にっぽんのお婆あちゃん」で辞めました。ちょっとカッコいいのですが、スクリプターのシンボルであるストップウォッチを踏み潰しました。自分自身に後がないことを納得させる為でした。
その後、スクリプターの仕事の依頼もあつたのですが、丁寧にお断わりして、私は監督なのだと思いつづけました。そんな時NHKの教育番組の台本を書いてみないか、という話しがありました。書いてみました。書けました。さーと書けたのです。どうしてなのかと考えてみました。スクリプターの仕事の時、撮影開始から完成までの間、私は少なくとも、100回以上は台本を読みます。自然に構成、台詞、全体の流れなど身にいていたのではないかと思うのです。なお、その台本は優れた脚本家によって書かれているものばかりでした。その上、私がついた監督5人の方達は日本を代表され、世界でも注目される監督達だったことも幸運としかいいようがありません。
しかし、何より必要なのは、自分自身の志しです。高い志しをもって想いつづけることです。かならず実現できます。必ずチャンスはめぐってきます。その時を逃さずキャッチして全力投球して下さい。私は、自分で書いたものを演出するという事で、現場の監督もする事になりました。ほとんどがドキュメンタリーです。モンタージュ、つまり編集の仕事ですが、勿論、編集の仕事もします。大好きです。私が監督になったのは30才でした。誰でも監督になれる事は、私でも監督になれたことで実証しました。さあ貴方の番です。こんな映画を創りたい、こんな映像を撮りたいと想つたら、まず、構成案を書いて下さい。その時、大切な事は讀んでもらう人、つまり相手に「意図」を理解してもらうような書きかたをすることです。決して自分よがりにならぬように、自分の文章に酔うことは禁物です。
渋谷昶子