映像の録音

 私の仕事は、映画の《録音》である。
職業欄には、録音技師、と書く。
音声ではない、オーディオでもない、ミキサーでもない。《録音》と言う呼称 にこだわっている。 撮影現場から仕上げまで一貫してかかわる事にしている。そして叉、私の師で ある久保田幸雄さんのように〈職人〉でありたいと思っている。

 人生の転機など何処にあるか判らない。卒業してすぐ一生の仕事を決めてし まうのが一般的だが、あの年頃で人生が判るわけがない。自分の事を考えても かなりいい加減な選択だったと思う。むしろ当時の状況に流されたといった方 が当たっている。『青年の海』が終わり、上映会も順調に進み新たな制作・撮 影が始まった(『圧殺の森』)。私は国家公務員として働きながら制作を手伝 っていた。

「青年の海ー四人の通信教育生たち」 1966年 小川紳介 ※フィルモグラフィー
「圧殺の森ー高崎経済大学闘争の記録」1967年 小川紳介
「現認報告書ー羽田闘争の記録」   1967年 小川紳介

 編集は四畳半の貸し間でやっていた。貧乏な自主制作だからフィルムを買う 金もなく、スタジオ編集など高嶺の花である。映写機は公民館などからタダで 借りたり、旧式な物を借りてきたりと私は雑用をしていた。当然同時録音等は 頭にもなかった。6mmテープを切り張りして編集し画を合わせたり、その逆 に画に音を合わせたりして、同時性を守った。同時録音にくらべるとより論理 的に言葉を編集しなければ全体の流れがスムーズにいかない。
 久保田さんはとても簡単にテープをつないでいく。画は目に見えるが音が見 える事が不思議で仕方なかった。見えない音をキチンと見てハサミで切り、張 りつないでいく手先は魔術に等しかった。
 夏の熱い日、冷房などない部屋で6mmテープを手際良く編集していく久保 田さんにすっかり魅惑されてしまった。

久保田さんはよく”職人”と言っていた。プライドを持った技術者=職人、技 術なくして表現なし。一緒に仕事をし、直接教わったのは数えるほどもない。 久保田さんは殆ど一人で仕事をこなしていた。助手を抱えられるほど映画状況 は良くなかった。

「日本解放戦線 三里塚の夏」 1968年 小川紳介
「日本解放戦線 三里塚」   1970年 小川紳介

 初めて録音を、しかも一人で現場をやったのが『日本解放戦線 三里塚の夏 』。他の人の仕事ぶりは見ていたが自分で録音するのは初めてである。久保田 さんに基本だけは教えてもらったが実技なし。録音機とマイクがあれば音は録 (と)れるという。VU計とマイクの使い方を教えてもらい、いざ実戦へ。ソ ニーの民生機と中古のテープ。どこで考えたのか木の棒でブームもどきを作っ たりして結構考えていたようだ。
無我夢中で2作目の『日本解放戦線 三里塚』も終わろうとしていた。上映会 の日も決まり仕上げは時間に追われていた。2班編成で音付けをしていく事に なり、淺沼幸一さんに手伝ってもらうことになった。ドラマ中心でやってきた がドキュメンタリーをやりたいと思っていた人だという。
 ラッシュを見てもらってから感想を聞かせてもらった。〈マイクがどこにあ るか、録る側の立場・位置がはっきり判り、とても面白かった。ドラマではこ んな音の録り方はしませんし、出来ません。〉
 私はどういう意味か理解できなかった。ほめられているのか、欠点を言われ ているのか判らない。かなり気を使っての発言だと判るまで時間がかかった。 つまり、マイクが向いている側の人はハッキリ録っているが立場の違う人、反 対側は音がボケているということだった。ドラマではセリフをすべて明瞭に録 っている、悪役だからといい加減なセリフにはしない。言われてみれば当然で あるし、ドキュメンタリーでもTVや良識的な中立主義では録る側の立場を明 確にしないことが公平だと言われている。そんな立場からみれば新鮮に思われ たのだろう。しかし、私はショックだった。考えた事もなかった《録音する立 場》、マイクを通してその位置が判るという事。映像や作品がその人の思想を 表すことは知っていたが音までそうであるとは恐ろしかった。又、録音者とし ての立場の差はあれ、どちらもキチンと録らなければいけないと言われたのだ と思った。作る側の立場は判るが音は悪いですねという事だと思う。
ドラマというセリフをキチンと録る世界があること、それが基本的な録音であ る事。基本を知った上で自己の立場を明確にする事と無知でそうなった事は、 天と地以上に違う。
 機材も知らないし基本も知らない。ドラマをやろう、私は決心した。

 学生運動も労働運動もしたことがない。激動する小川プロのなかで次第に落 ちこぼれていつた。もっと個々の心を見つめる作品をやりたいとも思っていた 。

 録音テープを文字に起こし構成を考える事。敵と味方を知ること。録ってし まった、或いは録らせて貰ったことでもそのことが将来その人に不利になるよ うな場合は使ってはいけない事。量が質に転換する居直りの思想。
 多くの事を小川さんから学んだ。

 加藤一郎さんからTVドラマをやらないかと電話があった。渋谷の喫茶店ロ ロで会い、お願いした。ひねたサードで迷惑をかけた。スタッフもよく、私も 自分の職に徹した。
マイク振りは下手でチーフに助けて貰った。時代劇、現代劇、昼メロ、なんで もやり、本数もかなりこなした。二重から長い竹製のブームを振る。2本のマ イクでセリフをつなぐ。いろんなケースをおぼえた。しかし、相変わらずマイ ク振りは下手だった。

 歩きながらセリフのあるやや広いカット・・・足もとが切れている。頭の上 はとてもマイクが入れない。ブームを一杯に延ばし足もとからセリフを録る。 中腰で歩く。テストが恨めしいほどつらい。今のように良いワイヤレスマイク ではない、AKGダイナミックマイクである。
 どしゃぶりの中でのチャンバラ。セリフがある。斬り合いの中でのセリフを うまく録れなかった。激しい動きの中で誰が何処でセリフを言うのかつかみき れなかった。必要だからセリフがあるのだと怒られた。
 リレコ<リレコとは撮影現場(ロケ)で録音したセリフなどをカット毎に音 質、レベルなどを補整し、シーンとして統一された音にして、磁気フィルム( シネテープ)に録音しなおす作業。編集から仕上げ(ダビング)まで使う音な のでキチンとやらないと、ダビングで苦労する。はロケ後か休日にやるので 先輩達は嫌がった。
本来ならばチーフが付き合うのだが私がやらされた。どんなサイズのカットか 、なぜこんな音なのか、マイクは何処にあったか、など細かく説明させられ大 変だった。しかし、これは大きな財産となった。
 本を読み、音をイメージするといいとも言われた。シナリオ、文学、政治、 酒、あらゆる事が話題になり毎日遅くまで続いた。たぶん私にとっては一番充 実した年月だったと思う。

 TEAスタジオで働くようになった。スタジオ造りから始めたので大工仕事 からハンダ付けまでやった。「水俣 患者さんとその世界」土本典昭、武満徹 のミュージックコンクレート、小林正樹「化石」、アニメからポルノまでなん でもあり。スタジオミキサーになる。教えてくれたのが「ゴジラ」をやった東 宝の飛田さん、「7人の刑事」TBSの泉田さん、二人がサブについてレベル やバランスを教えてくれた。ナマ音を造り選曲もした。
 TEAは小さなスタジオだが質の良い作品に恵まれた。オーナーは技術屋で 自作のシネコーダーまであり、録音技師でもあった。スタジオ経営は年中無休 、作品を選ばずでないとやっていけない。ポルノはアフレコからDBまで1ー 2日で仕上げた(外国物で劇場用)。しかし内実はSE・M(効果音・音楽) を事前に作り、それらはサービスであった。
表向きの予定表と違い毎日忙しかった。TVアニメ「サスケ」はシリーズでS E・Mを作るのが楽しかった。
 <セリフは強く、その他は弱く>と教わった。

「さよならCP」  1972年 原 一男

この時期に原一男と出会った。カセットで録った音を聞いてびっくりした。 録音状態が悪くてというのではない。言葉そのものが”言葉として”ほとんど 聞き取れなかった。
『さよならCP』である。脳性マヒ(CP)の人達の青春記録である。
 当時、小川さんは判らない言葉をスーパーで補足し誰にでも判るようにすべ きだと言っていた。私にとって千葉県三里塚の言葉は同一方言内だった。よほ ど特殊な方言でないかぎり理解できるのではないかとも思っていた。
 なぜCPを撮ったのか、ラッシュを観て、打ち合わせをした。それから何度 もテープを聞き返した。言葉を長く引っ張る。思うように言葉が出ず、どもる ようにつまる。そしてアクセントの強い会話は確かに聞きづらい。映像と一緒 になれば、さらに流されてしまう。
我々健常者の言葉が標準語とされている。そこから見れば障害者の言葉は聞き づらい、しかし、その聞きづらい言葉が彼等の標準語なのだ。彼等を選んだ時 からの宿命なのだ。彼等の言葉を翻訳したり、スーパーを入れることはこの映 画を否定することになる。
 テープを何度も聞く。
一度で判らなければ二度、二度で駄目なら三度観て欲しい。思い上がりかも知 れないがその位の価値がこの映画にはあると思った。彼等の言葉を否定するこ とは彼等自身を否定することにもなる。
 テープを聞く、一言一句は判らなくても全体の意味は判る。

 話し言葉・・・セリフは普通の作品よりレベルを下げた。多少でも耳障りを 良くしたかった。《人と言葉の関係》を意識するようになったキッカケの作 品である。
 今でもこの判断は間違っていなかったと思う。しかし、誰にでも判り易く・ ・・そう言われると不安になる時もある。

 助手時代は”マイク振り”は下手だった。録音技師になって助手の大事さを 知った。良い音を録るには、技師だけではどうにもならない。どんな音をどう 録りたいかはスタッフワーク次第だ。もう一度現場に出ることにした。

 TVドラマも番組もフィルム全盛時代だったので仕事は十分あった。やはり 撮影所通いは楽しかった。

 NET朝日(教育テレビ、現テレビ朝日)のスタジオ課に行っていた泉田さ んの紹介で報道部に契約で入った。「ドキュメンタリー現代」(30分 週1 回)を報道部が作っていた。3ヶ月で2本のペースは今では夢のようだ。演出 も若手の優秀な人達が社会問題をテーマとしてやり、報道部の目玉でもあった 。撮影所に比べると機材は新しく豊富だった。録音部は3人いた、私だけがロ ケから仕上げまでやらせて貰った。局内のスタジオか六本木のスタジオセンタ ー(現 日活スタジオ)でダビングをした。番組の合間には報道部員として国 会や現場へ取材に行った。

 岩波映画で人が足りないというので今回は技師としてやらせて貰うことにな った。
「生き物ばんざい」、発明、発見等いかにも岩波らしい番組が多かった。小川 さんと一緒に映画作りをしていた先輩達とスタッフを組むことになった。それ だけの月日がたっていた。
 音付け、選曲、ダビングまで自前のスタジオで出来る岩波映画の仕事は丁寧 で、自由感があった。貸しスタジオやTV局だと、風景カットに一つの雰囲気 音をつけるが岩波では、「音の厚み」といって、いくつかの音を重ねた。時間 を十分とり、自分で考えて音を付けるのが基本で、効果音(ライブラリー)の 数も豊富にあった。自由に物を造る基盤、そこで身に付けたことが私の基本に なったと思う。
 いつのまにかTBS映画社を中心とした仕事になった。TV界はビデオへと 大きく変わろうとしていた。特に録音関係は同じ電気ということでビデオ撮影 の教育を受けた。レジ合わせや色調整など基本をやり、今でいうVE以上だっ た。トラブル続きの毎日だった。
 組合対策として子会社請け負い制となったがフリーでやりたかったのでベー スをフジTV系に移した。休みが取れないほど忙しかった。景気がよく、日本 は経済大国になっていた。バブル経済に向けて膨らむ一方だった。

○ TVをやっての感想
ビデオは年1年と改良され、録音機材も一気に良くなった。新しい機材 を自由に、しかも速く使えることは素晴らしい事だった。
ワイヤレスマイクを使ったり、ステレオ番組で一本毎に新しい実験をし たり、贅沢な仕事ができた。
又、いつも思うことは、会社のお金で作り、給料を貰う人達に作品に対 する欲のないことだった。自主制作で金もない、上映する機会もない、 無い無いずくしの人達を考えると、つまらないだじゃれと質の低い番組 を作っているのが情けない。
ドキュメンタリーといいながらグルメ、旅、生き物、と趣味の世界には しり、人間を見つめようとしなくなった事に原因があるのではないだろ うか。”作れる事”の有り難さが少しも判っていない。
1回きりの放送で露と消えてしまうので”作品”との意識もないし愛着 もないのだろう。タレ流しで少しの進歩もない。音についても同じ事が 言える。VTRはすべてが同時録音であり、そのことによって音は主体 性を失ってしまった。
優秀なカメラマンも何人かいたが、会社人間には配置転換と出世があり 、油の乗る頃にはデスクー(管理職)になってしまう。

 原一男と《ゆきゆきて 神軍》の撮影が細々と続いていた。

『ゆきゆきて 神軍』 1983ー87年 原 一男

 電話の向こうで原が不安げに話している。
<・・・かなり危険なんだ、右翼に命を狙われるかも知れない、やるかどうか 迷っている。もし、やるようになったら一緒にやって欲しい。>

 奥崎さんの事を聞き、やりたいと思った。
右翼については全く恐怖感がなかった。今時の右翼はそんな馬鹿な真似はしな いだろうと思っていたから。それよりも公安警察の方が恐ろしかった。何をさ れるか判らない、鬼やお化けより怖い。

機材リスト:ナグラ4型
      ゼンハイザー415×1本
      短かめのブーム×1本

 訪ね歩く途中や相手との第一声を録りたいのでワイヤレス(WL)を使えな いだろうかと言われ、深く考えもせずにOKした。金もかかるので機材は最小 限度にしていた。WLは便利だが使い方次第で落とし穴がある。この時は見事 に失敗した。訪ねて行き玄関に入る。ここまでは良かった。WLはつけている 人だけはよく録れる。3人いて1人だけWLだからレベルはバラバラ、しかも その一人が大声だから最悪となった。ガンマイクだけなら振り方次第で自由に 録れる。みんながWLならこれほど楽な事はない。強引な押しかけ取材だから そんな事は出来ない。
今、TVドラマではWL万能だが、これもドラマ だから出来るのであって不自然なセリフも何も彼も許される。
ドキュメンタリーでは使い方が限定されてしまう。WLを付けて貰う信頼関 係と了解を得なければいけない。
1回限りで、それ以後はWLを使う事はやめた。

 戦後の生き方の中で兵士達は仕事も住む場所も散らばっている。地域差を表 現するために情景も沢山撮った。
会話中心になりそうなので音で家の周りの雰囲気を出し、広がりをもたせたい と出来るだけ現場ノイズを録り、他の音にも耳をすませメモに取った。
 編集するほどに情景は入らなくなった。家の中で喋りまくる。とにかく喋り まくる。
DBではかなり効果音を付けた。目立たないように、当たり前のように。それ でも何人かから印象的な音ですねと言われた。追加した音とは感じなかったの だから大成功なのだが、監督は効果音が少ないと不満気であった。ハデにドラ マチックに付けたかったらしい。

 一般にマイクは目立たないようにと言われ不利なポジションで喋りを録って いる。
録音という立場もあるだろうが、私はキチンとマイクを使い最高の条件で録る 事が相手に対する義務であり、礼儀だと思っていた。ポジションは上下と違っ ても自由に動けて良く録れるポジションを見つけ、聞き易い音を録ることを心 がけた。
 ドキュメンタリーでは音が悪くて当たり前、と言われる事が不愉快だった。

『よみがえれ カレーズ』 1987ー89 土本典昭

尊敬している土本典昭さんからスタッフに選ばれ、電話で即答してしまった 。

 本当は命さえ補償されない危険なロケだった。アフガニスタンは内戦が続い ていた。ソ連軍が引き上げ、各部族が和平し、国内統一を目指していた。砂漠 とイスラムの、遥か彼方の国、しかし、そこもアジアだった。同じアジア人と して日本人は尊敬されていた。
 スタッフで勉強会を重ねた。戦争を描くのではなく内戦をやめ統一を求めて いく人々を描いていくテーマを私は心から支持した。戦争を描く”きわ物”だ ったら私は加わらなかったと思う。
 真実を伝えること、現実の中から事実を見つける事、作為的な事をしないこ と。

機材リスト

     ナグラ4型
     ゼンハイザー416×1本

 人々の日常生活をしっかり描き、そこから平和を求める心を見ていく。効果 音も日常生活のこまごました音を使い、現実を現そうとした。音楽がかなりの 数作られて来たが日常生活の雰囲気を壊すような場合は使わなかった。音楽が 画を流してしまい記憶に残らない。優しく、楽しくはなるが生活が見えてこな い。土本さんは支持してくれた。
 インタビューの言葉をどうするか、スーパー(字幕)か、吹き替えか。文字 数に制限のあるスーパーは内容を十分に伝えられない。
吹き替え、さらに本人の言葉も使い、その時の気持ち、喜怒哀楽までも現して 行きたい。アテレコはやった事はあるが2カ国語を同時に使い、両方とも聞こ えるようにする経験はなかった。これも土本さんの言う真実を正確に伝えてい くやり方だった。喋る本人の表情と声は主張を力強く現した。
カメラマンは「スーパーだと顔をアップに出来ない。顔に字がかかって表情が 見えなくなってしまう。ここぞと思う時に中途半端なサイズになってしまうこ とがよくある」という。
 厳格な画と音の録りかたを初めて知った。聞いている顔でさえどんな話しで の表情かを土本さんは我々に求めた。

 犬や猫、クジラから虫、さまざまな生き物達、雨、風、波など自然現象。ど れ一つ取ってみても同じ音がない。私達人でさえ一人一人違う。こんな多種多 様な音をマイクで録って聴いた時、その良し悪しはどこで決めるか。科学的な 分析だけでは判断できないのがうれしい。それは聴く方も人間だからである。

 ○ 人の五感の情報取得能力
     視覚  60%   聴覚  20%
     触覚  15%   臭覚   2%   味覚   3%

 心理状態によっても同じ音が聞こえたり聞こえなかったりする。聞きたいと 思うとかなり悪条件下でも聞こえる。人ごみの中でさえも母親は自分の子供の 声を聞き分ける事が出来る。まわりの人達のお喋りは物理的に大きい音だが内 容も耳に入らない。残念だがマイクではこんな事は出来ない。マイクは物理的 にしか音を録れない。それらの音を組み合わせ、心理的にしていくのがダビン グ(DB)である。
 録音された音・CDやレコードを長時間聴いていると耳が疲れる。どんなす ぐれた技術者が録音した物であっても、この宿命から逃れることは出来ない。 電気的に音を変換する以外の方法が見つかれば別だが。
 自然界の音、演奏会で聴く音楽などは、かなり長い時間聴いていても疲れな い。シンフォニーの響きわたる大音響でさえ耳と体全体で感じ、むしろ心地良 い。
 私にとっての良い音は自然に近い音質、だからイコライザー(EQ)は出来 るだけ使わない事にしている。
 音の三要素・・・大きさ、高さ、音色。
例えば、”声の高さ(周波数)が変化している”という。
 男も女も早口で甲高い声で喋りまくる、うっかりすると日本語だと判らない 時がある。一方でニュースの女性アナの声はぐっと低くなっている。
女性の自立と声の高さは関係があるといわれる。高めの声でかわいらしく、猫 なで声を使う女達・・・
 話し言葉には個人差がある。三要素ばかりではなくリズムにも差がある。フ リーでいると映画以外はやらないと言ってはいられない。つまり失業状態の毎 日だからである。
もうかなり前に「カセット名作文庫」という物があった。近代小説を役者やア ナウンサーが読み、テープと本をセットにした当時としては新しい商品だった 。神田の小さな出版社の仕事だった。
 一定の長さに編集していくために句読点や段落で調整していくのだが、これ が結構難しかった。読む人によって《間・マ》の取り方が違い、そのリズムを 見つけることが大事だった。間の取り方は一定の長さで、短くも長くもなかっ た。都合でここは長くなどと編集して聴くと、リズムが必ず狂った。
例えば、杉村春子には彼女特有の一定のリズムがある。
 このテープ編集で、セリフ(言葉)の大切さと役者の芸の凄さを知った。

 録音(技術者)の立場は極めてあいまいで、評価も低い。自他共に認めざる を得ない現実である。
 伝説みたいだがトーキー時代になってからの話。月形竜之助・・・低い声で ボソボソとセリフを喋るのが特色の悪役・・・のカットを撮影していた時、監 督にもセリフが聞こえてこないので何度もやり直した。しかし、それでも聞こ えてこない。たしかに何か言っているらしい。マイクを近付けていくと聞こえ てきた。フレームが狭まりアップになってしまった。アップ=主役、マイクを 利用して主役クラスのカットを勝ち取ったわけだ。当時は性能があまり良くな かったし、録音の立場も良かったから出来たのだろうがウソみたいな話である 。声の悪い人は役者にもなれないと思われていた時代でもある。フィルムで光 学録音していた技術者時代でもある。
 現在は6mmテープ、DATが使われている。マイクも良くなった。科学の 進歩は機器関係を飛躍的に発展させた。それに反比例して職人的、人為的領分 が軽視され次第に追い払われていった。誰にでも出来、平均化された行程は熟 練工・職人を切り捨て大量生産と廉価を可能にした。資本主義を基本とした近 代社会の結果である。我々も切り捨てられつつある。TV時代になり急激に技 術革新が進んだ。人が機械を使う時代から機械に人が使われる時代になった。 例えばVEが音を録るようになってからマイクの扱い方が変わった。彼等はマ イクにウレタン・風防・レインカバーを常に装着し全天候型で仕事をしている さらにミスを防ぐためリミッターを使う。そんな現実からTV局の技術管理者 。
はメーカーに音質の改善を求めた。この状態で聞き易い音が録れるように。マ イク本体だけで聞くとかなりきつい音質である。

 ドキュメンタリーの音は悪くて当たり前と言われている。プロデューサー・ 監督にも責任はあるがそれに甘んじた録音部に重大な責任がある。たいした音 ではないからと現場音を制作や演出に任せきりにした。ひどい音でもこれでは 録音も演出も文句を言えない。建設や自然の記録だからと続けてきた習慣が固 定した。人間を追う記録も同じ道を歩んだ。
機材の進歩が追いうちをかける。かくて録音部のいないドキュメンタリーが作 られる。音にうるさいと言われる監督でさえ、本当にうるさいのはインタビュ ーだけだ。それも録るときだけで編集になると都合のいいように言葉をつなぐ 。
 ナグラ・ガンマイクでなければいけない等とはいわない。民生用のありふれ た機械でも使い方次第で十分にいい音が録れる。それが出来ないのはカメラ重 視主義と録音がいないせいである。