「ゆきゆきて神軍」を観た方は、しゃべりまくる奥崎さんや、元兵士達の話を理解
できたでしょうか?私としては聞き易く、明瞭な話し言葉を録音することを心がけた
のですが・・・
一般にスタッフといえば監督、撮影、照明となり視覚のほうが重要視されています。
録音はほとんど無視、映像のあるところ音があるのは当然と思われているからでしょ
う。しかし、昔は<無声>映画だったのです。今は音(セリフ、音楽、効果音など)
が映像に付いていて、つまりセットになっていると思っている人が多いでしょう。例
えばビデオのように。○○賞というのがいくつかありますが、そのなかに撮影賞はあ
っても録音賞は皆無に近い。
「ゆきゆきて神軍」はドキュメンタリーです。ドキュメンタリーの場合、場所が狭い
からとか、街中でうるさいからといって録音をやめる訳にはいきません。そんな場合
ドラマはセリフを別取りしたり、スタジオでアフレコにしたりする。
目のいい人はスクリーンにマイクシャドウ、さらにはマイク本体、録音している私
が映っているのを見つけていると思います。これはどういうふうに録音しているかと
いう舞台裏をさらしているわけで、黒子が頭巾を忘れたようなものです。六畳の部屋
に、奥崎さんほか数名、カメラ、録音、助手さん達、これだけの人が入って撮影し、
録音するわけです。カメラのフレームに入らない所へ体を移動させながら録音をしな
ければならない状況を想像してみて下さい。壁に張りついたり、床にしゃがみこんだ
り、奥崎さん達の話が続く限り延々と、手足がしびれても続くわけです。
<音>はたんにマイクを向けていれば採れるものではありません。たしかにマイク
を向けていれば音は入ってきます。それは<雑音>です。ドラマの場合は役者がセリ
フを云います。人工的に作られたセットの中で、与えられたセリフを採ればいいわけ
です。ドキュメンタリーの場合、全体の状況は大体分かりますが、何がどう進行して
いくのかは当事者しか知りません。或いは当事者にもその成りゆきは予想出来ないの
かも知れません。与えられた状況ではなく、被写体と、さらに全体的な相互関係でど
んどん状況は変化していきます。そのなかでどの音、「ゆきゆきて神軍」でいえば、延々
としゃべり続ける奥崎さんのどの部分のしゃべりを採っていくのか、どの部分は採ら
ないのか、それを判断し、行動するわけです。しかも<音>でなければならない。ね
らった内容とその話し声を″はっきり、明瞭に、聞き易く″録音すること、よく採れたと
しても内容が違っていれば、それは作品的には雑音でしかない。″きれい″に採ること
と、″はっきり、明瞭に、聞き易く″採ることは別です。
撮影に入る前に、全体の状況の綿密な打ち合わせをする。人物について、予想でき
る話しの内容、撮影済みのシーンとのつながり、今までの不足分をどう補っていくか
、さらに強調していく点、執拗に重複させていく話をどう積み重ねていくか、等を頭
の中に入れ、その上に不測の行動が入ってくる…文章にすると複雑だが現実にはカメ
ラがまわり、テープが回り始めると、意外と冷静に状況判断をしながら体がひとりでに
動いていく。
マイクはレンズと違いズーム機構がない。物理的な距離はちじめられない。アップ
が欲しければその被写体に実際に近づかないと採れない。さらにマイクには距離と角
度というレンズの焦点のようなものがあるので厄介になる。つまり、″聞き易い″言
葉をどういう方法で採るかという基本が出てくる。
奥崎さんが縁側から土足で上がりこんで殴りかかる。カメラは庭から撮っている。
録音はそうはいかない。庭にいては距離が遠すぎる、思わず足は土間に向かってしま
う。行動しやすいようにブームは短いのを使っているので、いつも私は被写体とカメ
ラの中間にいるようになってしまう。
ドキュメンタリーの場合は、特にマイクポジションが大切になる。一般にマイクの
使い方は色々ある…盗聴のように相手にマイクの存在を判らないようにする場合。テ
レビのインタビューのようにマイクを相手の鼻先に突きつけ、否応なくしゃべらせる
場合、或いは沈黙。マイクは目の前にあるが気にならない存在。自分の表現の道具と
してある場合。
マイクは物理的な物以上に心理的な作用を相手に与える。被写体の一番近くにいる
録音者の立場も、態度、表情、存在が場合によっては、そのシーンを左右する大きな
要因となることもある。ただ現場に立会い、録音していればいいというわけにはいか
ないのです。
ドキュメンタリーは現実の生活の中での緊張した人間関係がなんともいえない魅力
です。編集、ダビングはさらに再確認の楽しみがあります。ドラマもまた楽しいもの
で、私はドキュメンタリーとドラマの間を行ったり来たりしています。
<音>は見えないが、たしかに存在しているのです。