私が監督になれた理由

私がいま映画監督をやっているのは、小川紳介監督と出会ったからである。
もともと私は映画監督志望ではなかった。ただ、学生時代に見た小川監督の記録映画「圧殺の森」や「三里塚の夏」に登場する人間像に魅かれ、小川プロの映画運動にも共感した。当時、どこの大学でも学生運動が盛んで、全共闘が一世を風靡していた。私も一時期参加したが、理屈が先行する運動のあり方についていけず、それよりも小川プロの映画運動の方が人間的であると感じた。在学中から小川プロの上映運動に参加し、卒業と同時にスタッフの一員になった。その頃小川さんは、映画人特有の職能制を批判し、素人でも社会に対する批判精神を持って真剣に生きていれば映画に参加できると言った。つまり、映画の良し悪しは技能よりも生き方によって決まると言うのだ。この考え方は、当時の学生には実に魅力的だった。学生が好んだ言葉に“全人的に生きる”があり、専門の殻に閉じこもって社会批判が出来ない大学の教員を“専門バカ”と呼んだ、その頃の気分に小川さんの主張はぴったりだった。
しかし、それも最初の5、6年までで、その後小川さんは強烈にプロフェッショナルを志向するようになった。学生運動の気分で参加していた者にとっては違和感があったのだが、私の場合引き返せないほどのめり込んでいた。拠点を山形県の農村に移し、映画のための集団生活が始まった。
結局、小川さんとは22年間付き合った。小川さんはカリスマだった。今はやりのカリスマ美容師などのようにカリスマが単なる修飾語ではなく、小川さんは文字通り実体としてのカリスマだ。常に集団の中心にいて、小川さんの意思が集団の意思だった。私が小川さんからなかなか離れられなかったのは、小川さんに負けたくなかったからであり、潰されたくなかったからだ。
10年前の1991年(小川さんが亡くなる1年前)、私は独立した。と言っても、自信なんてひとつも無かった。ただ、一人で動けることがうれしかった。何でもやってみようと思ったが、42歳で初めて自立を自覚した者には選択の余地は少なかった。その時渋谷昶子監督に紹介され、小川さん以外の監督に初めてついた。渋谷さんは私を見て、温室育ちの純粋培養と言った。渋谷さんには普通の社会で生きていくための知恵を教えていただいた。渋谷さんと共有した2作品約4ヶ月の時間は、私にとって社会復帰のためのリハビリテーションでもあった。こうして、1992年独立後最初の監督作品である記録映画「小さな羽音」を作ることができた。
私の場合、映画監督を目指して生きてきた訳ではないが、自立したいという意思が結果として監督という道を歩ませたのかもしれない。